対談・インタビュー
Legal Professionals
臨床法学教育特集



2006.6.29(井桁大介、犬童淳平、趙誠峰)

2.第一のキーワード−「法科大学院教育」

山野目: ありがとうございました。
 この対談のキーワードの一方である「法科大学院教育」ということに関して、いままさに、村田先生から、全般にかかわる論点整理をしていただくことができました。
 法科大学院教育のあり方全般にも広く御言及いただきましたし、あるいは、その先で問題となってまいります司法修習との役割の比較あるいは役割の分担といったような話がありました。  

 振り返ってみますと、2004年4月に発足しました法科大学院制度ですが、その2004年4月は、当然のことながら、早稲田大学の法科大学院にとって開校の時期でありますと同時に、ひとり早稲田大学だけではなくて、全国の法科大学院注6にとっても、その時がスタートラインであったわけで、今ちょうど満二年が過ぎたところで、年度で言うと三周目に入ってきました。
 そこで、この二年を顧みてどうであるかというお話をしてみたいと思うんですけれども、いま村田先生からもお話があった通りなんですが、法科大学院制度というのはいわば一種の革命でありますから、法曹養成制度にとっても革命と言ってもよいという部分があります。そして、革命を果たすためにはまず一方では標語といいますか、スローガンですね、それが必要であります。

 いろんな標語、スローガンをまず用意して整えるということを人々がしたのが、 発足に向けての2004年4月までの時期であったし、それ以降のこの二年間であったように思えます。
 「理論と実務の架橋」というのも一つの標語、スローガンでありましたし、あるいは来るべき司法試験が実務的なものでなければいけないというのも、一つの理念の表明として受け止めることができると思います。 革命を行うためにはスローガンが大事ですが、しかし、もう一つ言われなければいけないことが、スローガンだけでは物事は動いていかないということです。実は、ここまで我々が歩んできた中で、標語、スローガンはかなり整ってきました。で、今のような理論と実務との架橋ということそれ自体について、それには絶対に反対だというような人はもうほとんどいないと思います。  

 ただ、問題は同じ旗のもとに、あるいは同じスローガンの下に集まっている人の間で、具体的に架橋とは何なんだという、その実行といいますか、実践の場面になってくると、私の見るところでは、相当の意識の開きといいますか、イメージの多様な部分があるような気がします。
 私達教える側にとってもそうですし、学生諸君のほうにとっても、何が理想的な架橋なのかということについては、実はいろいろな見方があって、そういうところから若干の混乱が生じているようなことも、いま村田先生からお話を頂いた部分にあるのではないかと思います。

 さて、そうするとこれからは、架橋は当然であるが、どのような架橋であるべきなのか、あるいは司法試験についても実務的な出題というけれども、実務的な出題とはどのような出題なのか、といったふうに、一個一個つめていかなければいけない段階に入っているんだろう、そのようなことをお話を伺っていて感じました。

◆早稲田の学生の勉強ぶりはどうか

山野目:
 そこで、次に村田先生にですね、今お話いただいたような一般的な論点整理の次の事柄としてお尋ねしてみたいのは、早稲田大学の法科大学院の学生を二年間にわたりご指導を既に頂いている実績をお持ちでいらっしゃるわけなのですが、ずばり早稲田大学の学生は見ていてどうなのか、これをお尋ねしてみたいのですね。

 実はちょっと紹介が遅れたのですが村田先生御自身も早稲田大学の卒業生でいらして、早稲田大学では卒業生のことを校友とお呼びしているんで、早稲田の校友のお一人でいらっしゃいます。ですから、ご自身がおられたときの様子との比較としておっしゃっていただいても良いのかもしれませんし、司法研修所の教官でいらした経歴を踏まえ司法修習生との比較でおっしゃって頂いてもかまわないのですが、法科大学院の学生を指導していて率直にお感じになるところを、伺ってみたいと思うんですが、いかがでしょうか。

村田: 私は学生時代や司法修習生時代には、あまり勉強した方ではなかったので、私がいうのもなんですけども、早稲田大学の法科大学院生を二年間見た限りでは、非常によく勉強しているのでないかと思います。

学生: (笑い)。

村田: いや、これはお世辞ではなくて、現在の東京地方裁判所に来る前には司法研修所というところにおりましたので、司法修習生の勉強ぶりといったものも良くみておりますが、勉強量的には、司法修習生よりもはるかに勉強していると思います。
 ただ、そこはやはり、立場の違いもあり、司法修習生は、既に司法試験は合格しておりますので、後は二回試験を残すのみであるのに対し、皆さんは司法試験という難関を残しているということで、大きな違いがあるとは思いますけれども、その違いを考慮しても、勉強量、勉強時間としては皆さんの方がかなり上であると思っています。
 したがって、司法試験にもかなりの確率で合格してくれるものと期待しておりますし(笑い)、現実にそうなってくれるものと思います。

 そういう意味では、早稲田の学生はよく勉強してくれており、レポート課題等にも一所懸命に取り組んで、判例・学説などについてもよく検討しているように思います。判例・学説の長所・短所などについても、よく調査をした上で自分の頭で何が問題かと考えて、結論を出そうという姿勢も感じられて、嬉しく思っています。
 例えば、司法研修所で修習生に対し、準消費貸借の考え方注7について述べなさいというと、原告説、被告説のどちらがよいかということですが、従来の司法研修所民裁教官室の多数説は原告説という立場を採用していたことから、原告説の立場に立って論ずれば事足りるということで、それだけを勉強してきて、それを前提として答案を書くということでよいと考えてしまいがちです。
 ところが、実は、その準消費貸借契約の理論に関する判例・学説には、原告説・被告説だけでなく、それらとは別に、折衷説という立場もある。しかも、いろんなタイプの折衷説があるのですね。にもかかわらず、そのような折衷説については、司法研修所などではあまり議論しないことが多いのです。
 そのようなことから、司法研修所では、教官も司法修習生も、原告説か、判例のとる被告説かに立って問題を論じていれば足りるところがあるのですが、法科大学院では、原告説・被告説のほかに、折衷説について勉強してきて論ずる学生が多いですね。議論のポイントもよく把握していますし、原告説の悪いところ、被告説の悪いところ、理論的に弱いところなどを把握した上で、だから折衷説を採用すべきだという議論を展開する学生が多いように感じています。

 そういう形で論理を展開し、自分の頭で考えた上で、折衷説が単に真ん中で中立そうだからとか、事案に応じて使い分けられて柔軟そうだからということではなく、原告説と被告説のそれぞれの短所、長所を考えた上で、折衷説がいいのではなかろうかというレポートを書いてくる学生が少なくありません。総じて、早稲田の学生は、自分の頭で考えようという姿勢というか、勉強のスタンスを持っていると思っています。少し褒めすぎかもしれませんが(笑い)。

 先ほど、レポート課題について触れましたが、レポート課題も非常に真剣に取り組んで、学生同士でもよく議論などをしています。より深い勉強をしようという意気込みが感じられて、大変嬉しく思っています。以上のような点が、早稲田の学生の良い点だと思います。

 早稲田の学生の悪い点といいますか、問題点ということですが。これまで二年間にわたって、2回ほど期末試験などをやりましたけれども、上位層と下位層の極端な分化という現実があるのではないかと思っています。
 これまで司法修習生をみておりましたので、旧司法試験組であるこれまでの修習生との比較でいいますと、法科大学院の上位層に位置する学生は、修習生と同等かそれ以上の実力があります。ところが、中間層はほぼ同じようですが、下位層に位置する学生は、司法修習生の下位層に比べて、その幅が厚いといいますか、裾野が広いといいますか、非常に下の段階までずっと続いているというような印象を受けています。

 このような現実を踏まえて考えますと、下位層にいる学生が本当に法曹になるだけの能力があるのかないのかということもさることながら、一所懸命に勉強している「はず」なのに、どうして伸びてこないのだろうか、何故法的な思考力が十分に涵養できていないのだろうかという問題について、教員の側でも考えなければいけないのではないかと思っています。
 特に、もうすぐ法科大学院設立から3年ということで見直しの時期が来ますから、それを前に、下位層の学生のボトムアップのための方策、あるいは学生の全体的な学力向上のための方策といったことなども、法科大学院として行うべき見直し作業の一つではないかと思っております。

山野目: ありがとうございました。
 今まさに具体的な素材を村田先生から頂いたので、やや脱線気味でお話をさらに発展させてみたいというふうに思います。上位層と下位層に分かれているという部分は、私も似たような印象を持つ部分がありまして、早稲田大学って言うのは、いろんな部分に関して言えることなんですけれども、大人数のオーケストラであると喩えてもよいですし、あるいは非常に、レフトとライトのウイングがですね、翼が長い巨大なジャンボジェット機に喩えてもよいのですが、全体をコントロールしていくのが、非常に多様性に富んでいて、難しい部分があるように感じます。

 教室の現場でもそうであります。準消費貸借のところの原告説と被告説のあたりのところは、折衷説のところまで含めて非常にきめ細やかなところまで議論しますと、要件事実論というよりも民法の思考の奥行きをあぶり出す良い局面だと思うんで、できる限りきめ細かく扱いたいと思うと同時に、お話に出た下位層の人も同じ教室の中にいるということも考えなければなりません。
 すると、お話を細かくしていけばしていくほど、もう、ちょっとついて行けないから勘弁してくれと言うような顔をしている人もいるかと思うと、折衷説を含めた先端的な議論が、もう楽しくて仕方がないという顔をしている学生も同じ教室の中にいるんですね。

 教師としては、巨大なオーケストラの指揮者の状態になってきて、指揮棒をふるってどっちもこう輝かしてあげたいんですけれども、時間の制約もありますから、最後のところ、難しくなってくると、「細かなところはあるけれども、原告説と被告説と・・・」、みたいにやっちゃったりすることもないではない。
 しかし、それをしてしまうと、今度はまた、話は非常に単純化されて、図式化されてしまって、いわゆる下位層の人たちは余計、要件事実論みたいなものを単なる暗記、というか図式的な長短の比較だけで終わってしまうような議論であるようなイメージをもってしまうという部分もあって、ここは非常に教える側の技量が問われますけれども、難しいというふうに感じますね。






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