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2006.6.29(井桁大介、犬童淳平、趙誠峰 )

【第2回】
3.第二のキーワード−「理論と実務の架橋」(続き)
◆弁護士に要件事実は要らないって本当?


山野目:
他方で、感情的な反発もあり、なぜ要件事実論をやらなくちゃいけないんだ、あんなことをやらなくても今まで通りで教育できるではないか、という議論もあります。そこはそうではないんだということは、いま村田先生にお話して頂いたと思います。

あんなもの要らないのではないのか、という議論との関係で、ちょっとこれは更に村田先生にご意見伺ってみたいと思うんですけども、よく教室の現場でやり取りしていると、学生諸君の中にこういうことを言う人がいます。「自分は将来裁判官になるつもりはない、弁護士になるんだ。だから、判決書において主張の整理、事実の摘示ということを調った仕方で要件事実論に則ってやるという場面はない。」と。「弁護士は訴状や準備書面を出せばよい。事情の欄にいろんなことは書くでしょう。いろんな事情はこちらに主張責任・立証責任があろうがなかろうが、わーっと書きます。それで、実際には先行自白や特に先行否認になっているかは、別にいいじゃないですか、書くことは同じなんですから。」というふうな議論をする人がいるようです。
早稲田にはそういう方はいないと思うんですけど、時にはですね、弁護士である実務家教員自身も教えながら、「要件事実論ではそう言うけど 本当は事情の欄に全部書いちゃうからね。」、「相手に立証責任がある事柄であっても、どこまで本当に整理がいるんでしょうかね。」、などとおっしゃられていることもあるようです。
そうなってくると、段々と、「試験に出るから覚えなくちゃいけないんであって、実務とは関係ないんだ。」と言う弁護士志望の方が出てくる。村田先生もそういうご経験おありかもしれないんですけど、そういう場面に時々ぶつかるんですね。

何回かそういう目に私はあったものですから、こちらにはその質問のときのマニュアルが用意されていて(笑い)、私自身は大体3つぐらいのことを言うことにしています。

1点目は、弁護士であったとしても、もちろん事情の欄を活用すること自体は、とがめられるべきことではないんだけれども、要件事実の正確な理解が無ければ、その訴訟の運営についての全体的な、構造的な見通しを正確にもつことができないはずである注13 。その訴訟の運営の見通しを全部裁判所にイニシアティブが握られてしまうことになります。つまり、裁判所を仰ぎながら個々の事案の処理の対応をしていくことになる。君はそれで弁護士として誇りに欠けるところはないのか、ということです。見通しをもった訴訟運営を、裁判所だけでなく弁護士のほうも持つためには、要件事実の理解が大事である、というのが1点目の回答です。

2点目がまさに先生がおっしゃったことでして、具体的に考えると要件事実がそろっていなければ、相手方が出頭しなかったときの擬制自白が調わないではないか、という問題がある。
ただ、この点に関しては、「いや全部書きますからいいんです。」と学生は反論してきます。沢山書いたほうはそれでいけるんじゃないか、というわけです。それに対しては、しかしやはり、先ほどの1点目のことがあると思います。

3点目としては、これはちょっと違う性質のことですけれども、「自分は裁判官になる、ならないと決め付けるな。」と注意するのですね。裁判所というのも今まで以上に魅力のある世界になっていくんでしょう。「自分は弁護士になるから。」という発想というか、物の言い方自体あんまり好きになれない。たぶんこれからの法曹界って、おそらく弁護士と裁判官の間の往き来って、今まで以上にあるはずなんですよね、だからそういう多少、進路指導的な観点を含めた回答が3点目です。

都合3つくらいのことを私はマニュアルとして用意して、「さあこの質問が来た。」というときには言うことにしているのですが、先生はどのような見方ですか。

村田: 何でも記載すればいいというのでは、整理とはならないわけです。例えば、当事者、クライアント本人と面接するときに、当事者本人は事件にとって必要でない事実でも何でも言いますよね。例えば、生い立ちからずっと言うわけですよ。売買契約の代金を請求するときに、「私はどこで生まれて、こういう生活していて、私は人を裏切らない人間です。」などと言うわけです。広い意味で言えば、これらも間接事実、補助事実です。自分の主張は正しいということの間接事実、補助事実です。そこから始まるわけです。「大学もここに行って、私、法学部を卒業していますから私の判断に間違いはないです。」とも言います。
しかし、例えば、弁護士がそのような事情聴取のために一日を費やすというわけにはいかないでしょう。例えば1時間、2時間で事実の把握をしなければならない。そのような情報で訴状を書きます。そのときに、「何でも書きますよ、何でも言ってください。」とは、言わないはずです。実際には、どうやって法律構成していくかということを考えながら、当事者本人と応接面談するのですが、要件事実の知識がないと、その際の指針や指標といったものが全くないことになってしまうのです。
当事者本人が、「先生、私の言うこと聞いてくれないのですか。」などと言ったときに、「貴方の生い立ちは関係ないのです。」と説明しなければならない。「いや、だって、私は嘘つかないですよ、それには生い立ちが重要なのですよ、関係あるじゃないですか。」と言われたときに、「それは、まず相手方の対応を見てから主張立証することです。」と、「相手方がこちらの主張事実を争ってきて、こちらの主張の信用性が問題になったときに言えばいいことだから、とりあえず最初は主張しないでいいでしょう。」と説明するわけです。

実際には、大事なこととして「相手方に何を請求したいのですか。」ということを聞きます。これに対して、当事者本人が、「いや実は相手方と何月何日に会って、こんなことがあったのですよ。」、「うん、それで?」ということで、そのような話が延々と続いていくということでは困ることになります。
これを、「貴方の欲しいものは何ですか。」、例えば、「お金が欲しいのです。」「どうしてですか。」「こういう契約したからです。」「その契約はどんな契約でしたか。」、「その契約はいつ締結したのですか。」、「証拠はどのようなものが手許にありますか。」という切り口が民法であり、それが要件事実なのです。

要するに、ある請求、ある行為を相手方である被告に求めるときに、その行為を求めるためには、最低限何を主張しなければならないのかということです。そして、その主張事実を争うのであれば、次にこの争われた主張事実をどのように立証していくのか、つまり間接事実、あるいは補助事実ということの位置付けができていないと、全部が同じ位置にある事実であり、要件事実であると考えたら、例えば訴訟の最初から、本人の生い立ちから経歴などについて、「小学校はどこに行って、中学校はどこ行って、高校はどこで、一所懸命に努力して早稲田大学に入ってね。」とか、そのようなことも主張しなければならなくなるでしょう。
だから、実は、主要事実が要件事実なのですけども、主要事実と間接事実、補助事実、再間接事実、再補助事実、これらを合理的に位置付けるということが大切になります。しかも、「争点は、生い立ちではなく、売買契約の金額ですよ。」、あるいは「売買契約を締結の有無ですよ。」と それで、「この事件では、契約書は無く、口頭で契約したので、この点は人証で立証しますよ。」というような議論をして、事案の概要を把握することになるのです。
主要事実レベルの骨格がまず分かっていないと、その事実のもつ意味合いが、的確に位置付けられないんですね。そうすると、例えば動機から何からすべてが争点になってしまって。生い立ちが争点であるなんていうことになったりするのです。そんなことはあり得ないことですよね。
当事者本人が、「相手方がどれだけ悪い人間かを立証したいんです。」と言ってきたらどうしますか。「そうしたら、私が言うことが正しいって思ってもらえるじゃないですか、これが要件事実で、大切な事実ですよ、これが本件訴訟の目的ですよ。」と言ってくるとします。そのような場合、弁護士さんに要件事実的思考が無いと、「うん、そうですね。」と思ってしまうかもしれない。そして、「じゃあ、相手方が悪い奴だということを最大の争点にしよう。」なんて言われたらどうやって裁判を進めるんですか、ということなのです。

山野目先生もおっしゃいましたが、全体的な見通し、個々の事実がもつ意味についてしっかりした位置付けを持っている人と持っていない人とで
は、切り口のシャープさ、事案の的確な認識・把握力、訴訟活動における進展の速さが全く違うことになります。そういう見通しのない人は、すべてが平板で、すべてが重要な事実ということになります。そして、陳述書も訴訟の帰趨にとってはどちらでもよいこと、つまらないことを沢山書いてきて、大事なことがほとんど抜けていたりするのです。そういう陳述書を出されたら、もう一度書いてくださいと、今度は争点との関係でここを重視して書いてくださいといわなければならないことになり、その場で実質的な争点整理ができないことになってしまうのです。
そのようなことを考えると、円滑で迅速な、そして適正な訴訟活動のためにも、要件事実的な思考は欠かせないということです。

要件事実論は判決書を作成するためのものであって、裁判官が分かっていればいいというのは、非常に問題のある思考だと思います。これからは、日本の司法界でも、毎年3000人程度の法曹が生まれてくるわけです。その中で、裁判官になる者は恐らく少数、例えば100人から200人くらいかと思います。本当はもっと増えればいいのですけれども。そういう少ない裁判官が重い釈明義務を負わされて、多くの事件で、「こういうことを主張立証してくださいよ。」、「これは主張しないのですか。」、といった釈明義務を負わされることになるわけです。
現時点では、最高裁が裁判官に要求する釈明義務というのは一般にかなり重い注14 と言われています。それはなぜかというと、最高裁も含めて、我々裁判官は「正義必勝」というメンタリティーを持っています。代理人がどんな人だって、言葉は悪いけども、どんなに出来ない人だって、事件として勝てる事件、勝つべき事件は勝たなければいけないと、それが裁判であり、それが正義の実現ということだということです。
そうすると、このような事件では、こういう事実があるでしょうと、裁判官が事実経過から窺われる事情を基にして求釈明することになります。訴訟代理人が本来やるべきことでしょうけれども、それを代理人がしないならば、裁判官がそれを指摘し、釈明してくださいということになります。しかし、今後の法曹人口の急激な増加などを考えますと、このように厳格な釈明義務についての考え方を維持できるか、維持すべきかは再検討しなければならない時期に来ているのではないかとも思います。

司法制度改革審議会の意見書の前提は自然淘汰注15 ということですね。良い法曹は生き残る、良くない法曹はそれなりに、ということでしょうが、この淘汰が起こる一番の要因は、訴訟代理人の訴訟活動であり、判決の勝敗ということであろうと思います。ところが、訴訟代理人が十分な法的能力・法的素養が無くても、重い釈明義務の存在によって、どのような訴訟活動をしても負けないということになると、そのような状況下で本当に淘汰が起こるのか、というようなところももう一回考えていかなければならないところであろうと思っています。
そういう意味では、法曹界における自然淘汰が起こる前提の不可欠な要素としても、そして、現実に淘汰が起こった際に自分が淘汰されないためにも、要件事実的な思考は極めて大切であろうと思います。

山野目: 学生諸君の意見も頂いてみましょう。
いままさに村田先生から重要な点が指摘されました。学生諸君の民事訴訟法の答案を読んでいると、こういうときは釈明すればいい、という答案が多く出てきます。民法の答案では、困ったときには信義則、民訴の答案では困ったときには釈明義務という答案がよくあります。
最高裁の判例の傾向が釈明義務を非常に重く見ているというのは、裁判規範としてはそれ相応に根拠があることでしょうが、これから法律家となっていく学生諸君の心構えとして、いわば行為規範としてみたときに、全てを釈明義務に頼って、つまりは全てを裁判所のイニシアティブに頼って訴訟運営していくということで、「それであなた方が弁護士になったと
きに、職業人としての矜持は保てますか。」ということを考えると、正しく理解された要件事実論を、熱意を持ってやっていただくことは、やはり重要だろう、と教える側は感じています。
ただ、非常に新しい素材でもありますから、学生諸君の間にも受け止め方に色々と違いがあるかとは思います。

学生: 私もまた、何でもかんでも釈明に頼るべきではないとは感じています。それはそれとしまして、要件事実の学習をやってきて、強く感じたことが一つあります。学校で教えられると、要件事実では、極限まで贅肉をそぎ落としたものが正解とされると感じました。それが、一番骨格になる部分だとは思いますし、骨組みが大事なのはよくわかるのですが、それ以外の部分を書くことがマイナスかのようなイメージを受けました。私は、骨組みさえしっかり理解していれば、多少贅肉がついていてもいいのではないかと、いろいろと勉強しながら思ったのですが、そのへんはいかがですか?




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