東京南部法律事務所

今回は、著名な労働事件など数多くの人権課題に積極的に取り組んでいらっしゃる東京南部法律事務所を訪問し、お話を伺ってきました。


1. 東京南部法律事務所について

――本日は訪問を受け入れていただきありがとうございます。今回は塚原英治先生、杉尾健太郎先生、芝田佳宜先生にご協力いただきます。どうぞよろしくお願いします。早速ですが、東京南部法律事務所の概要について説明していただけますか。

塚原: うちの事務所は弁護士17人と事務局12人でやっています。パートナー、アソシエイトという区別はなくて、事務員も含めて全員がパートナー。弁護士の給料を決めるのにも事務員が平等に一票を持っています。それはこの事務所を作った1968年から38年、基本的な精神は変わっていません。大事なことは、事務員も全員参加する会議で決めています。

――そういう風にしていると、事務員の方の事務所運営に対する意識も高くなるのでしょうか。

塚原: もちろんですが、昔ほど積極的ではないですね。経営の感覚を持ちうるかといえば、それはなかなか今の若い事務員には難しい。

――当初の趣旨は、事務員も弁護士も経営に主体的に関わるようにすることが目的だったのですか。

塚原: 目的と言うより、皆で作った事務所だから当然だという考えですね。

――年齢層に幅はあっても、それぞれの先生は発言権など立場的には対等なのですか。

杉尾: 建前上は(笑)。僕が塚原先生にタメ口を聞けるわけではないです(笑)。冗談はさておき、運営上の権限という意味では対等ですよ。

塚原: その辺はまったく本人の力によります。僕は入った年に、事務所の10周年記念行事と移転のプロジェクトのリーダーとして、先輩にあれやれこれやれと指示していました。その他のことでも、上が先輩風吹かせて命令したりすることはなかった。皆若かったせいもありますけれど。

――今の若い弁護士の方もそういうことに積極的に関わっているんでしょうか。

塚原: 前期の運営の責任者(運営委員会議長)は下から4番目の弁護士だった。僕も入って3年くらいでやりましたよ。

杉尾: 特にトップダウンみたいなことはないですね。

――話は少し変わりますが、特に新人のときの仕事のやり方とか、この事務所ではその辺はどのようにしているのでしょうか。

杉尾: 新人弁護士は、登録してから半年間は、事件の受任にあたって先輩弁護士と共同受任することにしています。先輩弁護士と必ず組んで、事件をやります。

塚原: それはここ15年くらいだね。それまでは、「うちは弁護士を採っているのであって、修習生を採っているのではない」というのが原則だから、入ったその日から1人で相談も事件も担当していた。そういうことではちょっと危なくなってきたので、半年は仮免期間にして法律相談を2人で受けるようにした。

――事件の入ってきかたについて、事務所に対して事件が来るのか、個々人に来るのか、まあ両方あるとは思いますが、どの程度の割合になっているのでしょうか。

塚原: それはキャリアによって違うね。

杉尾: うちの事務所の特徴として、日直制を採っていることが挙げられると思います。日直というのは、例えば今週の月曜の午前中の2時間はだれだれの担当という風に、日直に入るんですよ。うちは一見さんお断りの事務所じゃなくて飛び込みの相談も受け付けるので、そういう人から電話がかかってきて、何曜日の何時頃都合がいいと言われると、そこの枠の日直担当者に事件が配点されるわけです。あとは、僕も4年目に入ったので、最近は多少お客さんからのご紹介も何件か入ってきています。上の期の先生はご指名が多いかと思うんですけど、新人は、当たり前ですけど、指名なんかないから、日直で入ってくる事件をどんどん入れて、そこで自分のお客さんを増やしていくということになります。

――顧客への宣伝・アナウンスなどはなさっているのでしょうか。

杉尾: 事務所ニュースを送っていますね。

塚原: 年賀状・暑中見舞代わりのものです。


――大体何部くらい発行するのでしょうか。

塚原: 今は6000くらいかな。顧客名簿は10000を超えているけれど、全員に出してはいません。

杉尾: 基本的に各弁護士が、自分の顧客名簿を持っているので、この人に送ってくださいというのを毎年出すんですよ。

――それはどういう方が対象ですか。弁護士の方が判断するんでしょうけど・・・頻繁にお世話になっている方ということなのでしょうか。

杉尾: まあそうでしょうね。

――枚数の努力目標みたいなものはあるのでしょうか。

塚原: それはまったくないですね。出す挨拶状の数は人によって全然違う。宣伝する気のない人はあまり出さないし。

杉尾: もちろんキャリアによって全然違いますね。例えば仕事を始めて1年くらいだったら顧客名簿は100人もいってないだろうし。

塚原: 1000枚を超えて年賀状や事務所ニュースを出す弁護士と、別に宣伝をしたくないっていうタイプの弁護士と。それぞれのスタイルなので、どうしろとは誰も言わない。

2. 民衆の弁護士

 

――芝田先生は昨年(2005年)東京南部法律事務所に入られたということですが、選択の理由はどのようなものだったのですか。

芝田: 司法研修所では東京南部の名前は知名度もあり、人気はありました。

――では、それが決定的だったと。

芝田: それもありますけど、やっぱり人ですね。ここの事務所の人たちと一緒にやっていきたいと思えたということが、決定的な理由でしたよ。

塚原: 抱いていた弁護士像と現実で何か違いがあるかな。

芝田: あまりないですね。南部でやっているような仕事をイメージしていました。僕は東京の大学ではなかったので、むしろ弁護士の仕事にこんなにもたくさん種類があるとは思っていませんでした。

――では、先生方のお仕事について具体的にお伺いしたいのですが。

杉尾: 僕は弁護士登録したてのころに、在日コリアンの子どもたちに対する嫌がらせ問題に取り組みました。平壌宣言のときに朝鮮民主主義人民共和国が日本人拉致を認めたのですが、その報道があった直後から朝鮮学校に通う子どもたちに対する嫌がらせが激化したんですよ。それこそ学校の爆破予告とか生徒の服を切り裂いたりといった暴行、脅迫事件とか・・・それで、とにかく実態調査をしてみようということで、同期の弁護士たちに声をかけて朝鮮学校の実態調査に入って報告書を作り、その報告をもとに活動をしたんです。

塚原: あれはずいぶんマスコミも取り上げたし、全国的に知られたよね。

杉尾: そうですね。法務省にポスターを作ってもらったり、それを駅に貼ってもらったりもしましたね。

塚原: 彼が弁護士1年目のときに全国の弁護士に呼びかけて「在日コリアンの子供に対するいじめを許さない若手弁護士の会」というのを作って、代表になってやっていたんですよ。森山法務大臣に彼が申入れをしている写真が全国紙の一面に出ました。法務省の人権擁護局も動いたよね。それは事務所で誰かがやれといったわけじゃなくて、彼が自分でやっていたんです。

杉尾: デリケートな問題なのであっちこっちから心配されましたが、語弊をおそれずにいえば、非常に面白かったですよ。私にとっては、未知な領域の調査をして、行政に申し入れして、もちろん、それで劇的に問題が解決したわけではないんだけど、マスコミがこぞって「北朝鮮」バッシングの中にあって、社会に一石を投じたことはできたのではないかと。朝鮮学校に行ったりすると、小学校の女の子とかに「ありがとう」って言われたりするんですよ。やっていてよかったと、ああいうことは本当にお金を出しても買えない経験です。

塚原: あれはやはり、世の中を動かした。マスコミも、書きたいと思っても絵にならないと書けないし、撮らない。具体的な動きがないと記事にはならない。杉尾君たちは、いろいろなところで聞き取りをして、調査報告は簡素なものだけれど実際に動いた人でなければ書けないものを書いている。だから使えるし広がった。みんな法律家の仕事は理屈を立てることだと思っているけど、どれだけ具体的な生の事実を発掘できるかに勝負はかかっているんだよ。

杉尾: そうですね。現実に起きている事実をきちっと見る・・・もちろんいろんな見方はあるけども、より真実に近づこうと、事実を見極めることを意識することが、実務法曹にとっては大切だと思います。理屈うんぬんの前に、事実をしっかり把握して、依頼者が何を求めていて、ということをきちっと把握することをまず心がけるべきじゃないかなと思いますね。

――そもそも、弁護士になられた動機はどのようなものだったのですか。

杉尾: 私の弁護士のイメージって1人で国とかを相手に喧嘩できるんだなぁ、かっこいいなぁっていうのがあって、あこがれていました。単純ですが、それが動機ですかね。実際は、弁護士は、あくまで代理人であって、1人で勝手に喧嘩しているわけじゃありませんが。

――そうすると、いわゆる市民弁護士みたいなものになりたいなということですか。

杉尾: 市民弁護士っていうと概念がはっきりしないんだけど、まぁそうですね。

塚原: 市民弁護士っていうと、ちょっと違うな。

――市民というより、地域に密着してということでしょうか。

塚原: 我々の事務所がなんで蒲田にあるかに関係するけど、蒲田は日本の戦後労働運動の発祥の地で、工場労働者が多い。町工場など零細企業も多いところです。日本最大級の借地借家人組合もあった。しかし、事件を頼むとなると弁護士は新橋とか銀座にしかいない。作業服では行けないから、家に帰って着替えて靴はいて行かないといけない。面倒で気軽には相談もできない。「菜っ葉服(工場労働者の作業服。青いから言う)や下駄ばきでいけるような事務所がほしい」という声が上がる。それに応えて、都心の3つの事務所にいた経験3年から6年の若手弁護士4人で事務所を作った。それが出発点ですね。今は綺麗なところに移っちゃったから下駄履きでは来にくくなってしまったかもしれないけれど(笑い)。労働者や零細業者とかは市民と言っても上層ではないわけだ。大田区は田園調布のような高級住宅地もかかえている一方で、糀谷とか羽田と言った下町・工場労働者の町をかかえているところ。僕らは町工場の労働者やおじちゃんおばちゃんの世界でやってきた。市民というとハイカラな感じ、庶民というと戦うイメージがない。だから僕らは「民衆」の弁護士だと言っている。

3. スカンジナビア航空事件


――なるほど。そうなると、やはり労働関係の事件が多いのでしょうか。

塚原: 事件数は通常事件の方がずっと多いわけですが、他の事務所に比べれば多いですね。

――その中で印象深い事件はどんなものがありますか。

塚原: SASの事件は思い出深いですね。

――だいぶ苦労をされたとか。

塚原: 当事者は運動など初めての人たちでしたから、長期にわたって裁判で5年も10年も闘うことはできないので、短期決戦で臨みました。空前の大合理化提案を受け、多くが退職して、一部は会社提案の切り下げを呑んで再雇用される。組合に残って解雇予告の効力停止仮処分を申し立てたのは25名、会社はそのうち9名の解雇を撤回して職場に戻し、16名が決定の対象になった。当時JRを除いて日本最大の解雇争議でした。これだけ大型の事件で半年の仮処分で勝負するのは非常にきつい。1年ちょっとで400時間くらい使ったかなぁ。基本的には自分たちで闘えと言っていたけれど、闘争経験がないから、こんなビラを出してもいいかっていうFAXがくれば、最低限のチェックはした。会議はしょっちゅうある、裁判の書類は作るうえにそんな仕事まである。

――では、その事件だけにかかりきりになったのでしょうか。

塚原: もちろんそんなことはない。20件程度の事件はもっているし、弁護士会の仕事もしていた。それでも使える時間のかなりの部分はそれにつぎこんでたね。だから、収入は半減。預金を下ろして食べていました。

――苦労を重ねて一審の決定までいかれたわけですが、変更解約告知が認められて結果は敗訴になってしまいました。

塚原: 敗訴すると清算主義が生じる。これ以上の闘いはできないとやめる人が出るのは仕方がない。会社はその機会に、再雇用の募集を対象者に出す。何人かはこれに応じて2人が再雇用される。再雇用して貰いたいがために中の情報を持って組合を抜けて会社側に付く人も出てしまう。その時がやっぱり一番キツかった。「組合の弁護士の言うことなんか聞いてて、私たちは間違っていた」って言うわけだ。

――それは面と向かって言われるわけですか。

塚原: そうだよ。負けるっていうのはそういうことだ。我々が決定の理屈がいくら間違いでひっくり返せると説得したって、裁判所が言うんだから、当事者はどちらを信用するかということになる。それまでに敗訴のリスクは散々説明していたって、本人たちはそんなリスクの方は聞かないんだ。しかし、職場にいる9人と被解雇者の7人が残り、闘争を継続したんです。

――結局残った方々だけで二審を闘われたわけですが、情報は漏れてるし、より不利になっていくわけですよね。

塚原: それは運動的に不利になるだけで、裁判の争点とは何も関係ないわけだから裁判上は何も問題が無い。しかし、相手側は組合の軍資金がどのくらいで切れるかという情報を持っている。運動はそういうところだって影響する。組合は事務所を構えて運動の拠点にしているから、賃料を支払うための金をどれだけ持っているか。それが尽きたらその後どうするか、みんな考えていかないといけないわけだ。でもみんなよくがんばったね。

――それで、二審で実質勝訴の和解ということになるわけですが、それ以後被害者との付き合いやつながりというのはありましたか。

塚原: もちろんです。ついこの前も、副委員長だった方が亡くなって、偲ぶ会兼、闘争終結10周年のパーティーがありました。和解以後も相談もくるし、痴漢えん罪(一/二審無罪)の被告人になった人もいる。解雇を撤回して職場に戻す際に、1年ごと更新というとんでもない契約だったのを期限の定めのない契約にさせるなど、条件を多少引き上げた。職場に戻ってからは団体交渉により労働条件はかなり上げています。

――労働事件の醍醐味はそういうところにあるのでしょうか。

塚原: そうだね、アラビアンナイトに出てくる瓶の魔人。封じ込めていた魔人を出してしまった漁師の話。知っていますか(笑い)。

――ランプの魔人ではないんですか。

塚原:
ランプの魔人ではないの。海で拾った瓶をあけたら、魔人が出てきてしまった。それを智恵のある漁師が再び封じ込めるという話。「変更解約告知」などという、使用者にとって最大の武器を与えるような決定を導き出してしまった。それをどうやって封じ込めるかというのが、この事件に関与した自分の任務だという意識を私は強く持ったし、当の組合もそれは持っていた。つまり、労働条件を3分の1にする、それまで年収1000万円くらいだった労働者を年収400万円で働かせる。いやならクビ。こういうことは、零細の職場ではこれまでもあった。今まで月20万円出していたのに明日から15万円だ、イヤならいいよ、お前なんか来なくたって。これは労働法を知らない、労働組合のない職場では聞くけれど、中企業以上ではなかった。それを天下の大企業がする。そういうことを許していいのか。変更解約告知という名前を付ければ許されるのか。ドイツにあるといっても、ドイツでは労働者は自分の身分を確保したまま条件を争うことができる。いやならクビというのとは大変な違いだ。そんなわけで決定が出た直後から、あちこちで研究会に行っては、報告をしたり議論をした。そんなこともあって学者の評釈は東大労研グループも含めてみんな批判的だったんだよ。理屈としては認めるけれど、具体的な適用では問題があるという意見を含めて。闘いをやめてしまえば、そのようなものが社会的な規範になってしまう。させてはならじというわけで、僕の方はそういう理屈をこれ以上広げさせないということにかなりの労力を使ったし、当の労働組合員達は、一生懸命、その後もひるまずに闘って、ビラまきをしたり色んな要請をしたりした。朝日新聞の論説委員が取材にきて、「リストラの武器にするな」という社説を書いてくれたのはうれしかった。

――そして和解が結ばれるわけですよね。

塚原: 96年の2月に、解雇されて争っていた7名全員を復職させる、という条件で和解した。和解したときに、日本テレビのニュースで「全ての産業で進むリストラの嵐の中で苦しむ多くの人たちに希望を与えることとなった」とコメントしてくれた。それには感激したね。最後までがんばっていた人全員を戻すことができたし、本当にやってよかった。しんどい事件だったけど。

4. おわりに

 

――組合の方々からかけられた言葉で印象に残っている言葉はありますか。


塚原: JIL(独立行政法人 労働政策研究・研修機構)の平澤純子さんが、組合の人たちに当時どう思ったかを含めた聞き取りをやって、かなり詳細な報告を出している。その中で最後まで闘っていた人たちは家族も含めて、「やってよかった」「闘ってよかった」っていうことをみんな言っている。みんな大変だったんだ。当時は明日が見えないわけだからね。子供もいる、1人なんか家を買ったばかりだった。闘争中に手放すんだけどね。収入がなくなるから払えなくなる。それで賃金仮払いの仮処分を申し立てたら裁判所は認めてくれないわけだからさ。けれどその人だって、「自分が選んだ道は間違ってなかった」って思えるような勝負をすることができた。平澤さんにパーティーで会ったときに、「塚原先生にお会いできて大変良かった。組合の人たちがみんな先生のことを言うからどんな人なんだろうと思ってました」って言われた。やはり、こっちを信頼してくれたから一緒にやってこれたわけで、「よかったな」の世界だよね。

――ここまでお話を伺っていると集団訴訟などの公益的な仕事を多くなされているようですが、やはり生活面が苦しくなることはあるのでしょうか。

塚原: それはそうだけどやっていけないことはないよ。生活の幅をむやみと広げないこと。つつましやかに生きる。きわめて簡単なことだよ。

杉尾: 僕は、感覚的には半分くらいかな、そういうお金にはならない仕事をやっているんですけども、それでもまだ食べられます(笑い)。

塚原: そういうことをやったら食べられないということはなくて、私も家族を連れて海外旅行行くし、若い弁護士だって行けるしね(笑い)。

――なるほど。こういったお話というのは後輩の弁護士の方に話したりするのですか。

塚原: 大型の事件の場合は年2回の事務所総会の際に報告するけれど、それ以外では特にはしないな。修習生や学生の事務所訪問は若手弁護士にとっては先輩のその手の話を聞くいい機会になっていると思う。一般的に言うと事件をやっていれば自分でいくらでもそんなことは学ぶのであって、事件を離れて学ぼうというのはかなり無理がある。自分でやってみればすぐに、ここはどうしたらいいんだろう、これはどうしたらいいんだろうと悩み考えることが出る。早稲田の臨床教育がやっているように、学生に責任を持ってやらせない限りはダメなんだよね。司法修習の問題点は修習生をお客さん扱いすることにあるんだ。自分で責任を持って、この依頼者の問題を解決すると思えば一生懸命調べるし、どうしたらいいか必死に考える。考えた上で先輩と議論すれば先輩のアドバイスが受けられる。考えないで見ているとあっという間に通りすぎちゃうんだよ。自分で考えないから全然力にならない。自分で責任を持って仕事してない限り学ぶことが半分以下になる。うちの事務所では最初からそれぞれに全部責任を持たせる。基本的には新人といえども1人で主任をやってもらう。もちろん専門的なもの、難しいもの、大きな事件の場合には先輩がサポートに付くけれど。事務所は大部屋だし、様々な既決記録も文献もあるから、わからなければ先輩がいろいろ教えてくれる。しかし基本は自分で必死に悩み考えるわけだよ。そういうことを繰り返しやって成長していくんです。

――そろそろお時間のようですので。

 貴重なお話を伺って大変勉強になりました。今日はお忙しい中お時間を割いていただき誠にありがとうございました。


スカンジナビア航空(SAS)事件(東京地決平成7年4月13日判タ874号94頁
 従来からの雇用契約の合意解約の申し込みと、労働条件を切り下げる新たな雇用契約締結の申込を使用者から同時に受けて、承諾しなかった労働者が解雇された事件。東京地裁は「労働条件の変更が会社業務の運営にとって、必要不可欠であり、その必要性が労働者が受ける不利益を上回っていて労働条件の変更を伴う新契約締結の申込がそれに応じない場合の解雇を正当化するに足りるやむを得ないものと認められ、解雇を回避するための努力が十分尽くされているときは新規契約締結に応じない労働者を解雇することが出来る。」とし、これらの要件を満たす解雇は解雇権濫用にならず、有効とした。塚原先生は原告側弁護団の中心となって訴訟活動を行った。 変更解約告知概念の議論の端緒となった労働法上非常に重要な事件である。

 

塚原 英治
1976年東京大学法学部卒業。1978年弁護士登録。現在、早稲田大学大学院法務研究科客員教授(専任扱い)。その他、東京地方裁判所調停委員等


杉尾 健太郎
早稲田大学法学部卒業。2002年弁護士登録。現在、第二東京弁護士会人権擁護委員会副委員長等。「となりのコリアン」(日本評論社)共著。

芝田 佳宜
京都大学法学部卒業。2005年弁護士登録。