1.はじめに-二つのキーワード

山野目: Law&Practiceの創刊号に載せることになりますこの対談は、テーマを、法科大学院教育における理論と実務の架橋、ということにさせて頂きました。
 このテーマから二つのキーワードを拾って欲しいという気持ちがこめられております。

 二つと申し上げましたのは、一つは「法科大学院教育」ということであり、もう一つは「理論と実務の架橋」ということであります。

 それぞれに一定の思い入れがありまして、「法科大学院教育」というのが一方のキーワードになっているというのは、言うまでもなくこの雑誌、媒体が、早稲田大学の法科大学院の学生諸君を主体的な担い手として作られるものであるからこそ、まさにその法科大学院教育の中で育まれて行くであろうこの雑誌の、一つのキーワードとして法科大学院教育というものを考えてみたいということであります。
 それから、もう一つに、「理論と実務の架橋」ということがございます。これは、また後でお話に出てくるとは思いますが、司法制度改革審議会の意見書がこの法科大学院制度発足の、非常に重要なきっかけを提供しましたが、その中にまさに理論と実務の架橋という言葉が出てまいります注1。それが、法科大学院教育の実践の中で、どういう風な意味合いをもって、今受け止められているのか、ということを、今日話題にしてみたいと思います。

 そういう風な見地がありましたので、まさに今回のこの対談でございますが、理論と実務の架橋というそれぞれ架橋される両側の、半ば当事者であるといわなければならないであろう、研究者教員と実務家教員の対談ということで、仕組んでみました。

 私は、早稲田大学の法科大学院で民法を専攻して研究に従事する傍ら、いくつかの科目を担当しております山野目と申します。
 担当している科目は、一年生の民法の基本科目に加えて、二年次の、これは村田先生と一緒にそれぞれクラスを分け合って担当させて頂いているのですが、民事法総合Ⅲ注2という科目を持たせて頂いており、さらには三年生で先端科目としていくつかの科目を担当させて頂いております。
 本日の対談のお相手をして頂けることになった村田先生は、司法研修所の教官も経験され、現在は、東京地方裁判所の判事でいらっしゃる、民事裁判のエキスパートでいらっしゃいます。それと同時に、早稲田大学が派遣判事としてお迎えして、今非常に精力的に学生諸君の相手をしてくれています。

 今日は村田先生、大変お忙しいところを学生諸君の要望を容れて、この対談のお相手をお願いすることができました。
 なお、対談という形式をとっておりますけれども、時折、いわばバイプレーヤーとして、学生諸君の生の声も反映させたいと思いますので、ご発言頂く機会があるであろうと思います。

 この対談の趣旨は大体このようなことであります。二つのキーワードといったようなことを申し上げましたけれども、大体このようなアングルでお話を進めて行くにあたって、まず村田先生の方からですね、最初に、こういうテーマについて、大雑把にどういうふうな所感を今のところ抱いておられるかということを、お尋ねしたいと思います。

村田: 現在、東京地方裁判所で民事裁判を担当しております村田でございます。平成16年4月から3年間という申し合わせで、裁判所からの派遣教員として、特に2年生の後期に割り当てられております民事訴訟実務の基礎という科目注3と民事法総合Ⅲという科目を担当させていただいております。

 お話にありました二つのキーワード、「法科大学院教育」と「理論と実務の架橋」ということにつきまして、若干考えていることを述べさせていただきます。

 まず、「法科大学院教育」ということですけれども、法科大学院は、本来的に実務法律家、実務法曹の養成を主目的にして設立されていますので、理想的な法曹といいますか、法曹に望まれるものとして何が必要かということを考えてみたいと思います。第1に、法曹は、ある事件を与えられたときに、どこに問題があるのか、この事件を解決するためにはどんなことが必要かということを考えなければいけないということです。そういうことが考えられる能力というのは、事実調査能力、法的分析能力といわれたりします。第2に、その調査したところ、あるいは分析したところを具体的に書面なり、口頭なりで表現しなければいけない。これが説得的な表現能力ということになります。第3に、実際に、訴訟における相手方の証拠と自分の側の証拠等を精査・総合して、実際に、真実はどこにあるのかということを認定することになります。これが事実認定能力ということです。さらに、これらとはちょっと違った能力あるいは資質になりますが、第4に、法曹としての高い倫理観あるいは職業意識というものを持たなければいけない、といわれています。
 これが法曹に望まれるもの、あるいは法曹としての資質として重要なものということになります。

  実は、このことは、実務法曹の多くの方が考えていることでして、この法曹に望まれるもの、資質というものの考え方は、司法制度改革審議会の意見書にも反映されている注4ところでございます。
 したがって、これらの能力を涵養できるような教育をすることが、法科大学院に望まれることということになります。

 理論と実務の架橋という観点から具体的にいいますと、まず現在の法曹養成制度を前提とする限り、司法試験合格後になされる司法修習、あるいは司法修習における実務修習というものの存在注5を抜きには語れないのではないか、と思っています。
 そうしますと、実務教育の主幹、根幹といいますか、主たる部分は司法修習で行われるということを前提として、法科大学院教育が果たすべき役割を考えるべきではないかと思っております。
 司法修習では、法科大学院において習得した法律知識や実務の基礎的な素養を前提として法律知識の深化とともに、実務に応用できる能力の涵養を目指すということになっておりますので、これらを前提として法科大学院における教育がどのようにあるべきかを考えるべきではないかと思います。

 これまでの司法修習を考えますと、少し言葉は悪いのですが、判例理論を中心とした実務教育に偏していた、あるいは特化していた部分があります。それはそれなりのニーズがあってなされていた部分もありますが、そのような、司法修習と法学部における理論教育との関係や役割分担といったものは、これまではあまり考えられていなかったように思います。
 そこに、今回プロセスとしての実務法曹の養成を主目的とする法科大学院が創設されたわけですから、法学部における法理論教育、次の段階の法科大学院における法曹養成教育、そして司法修習あるいは実務修習における実務教育、これら三つの教育の適正な役割分担というものを、改めて検討すべき時期に来ていると思います。そして、現時点での考え方としては、法学部は広い意味での一般教養としての法学教育、法科大学院は理論面の法学教育とともに法律実務の基礎部分の修得、司法研修所は理論面の法学教育の深化と法律実務知識等の応用的修得という方向性で役割分担を考えるのがよいのではないかと思っています。
 そうしますと、私の全く個人的な見解ですが、法学部での法学教育は、実は広く浅くでも結構です。他方、法科大学院における法学教育、法曹養成教育は、理論面では、先端的な部分を含めて、広くかつ深い教育というものが望まれるのではないかと思っております。法科大学院では理論としての法律学にどっぷり浸ってもらって、じっくり足腰を鍛えてもらいたいと思っております。
 ところが、法科大学院の学生を指導していると、特に2年生、3年生になると、司法試験を意識しすぎるあまり、小手先だけの条文知識や、択一問題解答のための知識、あるいは論点の学修のみを大切にして、法的思考力の涵養という部分を疎かにする傾向があるように感じます。

 法科大学院の学生には、せっかく法科大学院で勉強するのですから、小手先のことではなくて、法的思考力を十分に涵養することができるような、いわゆる足腰を鍛えるというか、いわば骨太の勉強をすることに意を用い、力を注いで欲しいと思っています。

 

2.第一のキーワード-「法科大学院教育」

山野目: ありがとうございました。
 この対談のキーワードの一方である「法科大学院教育」ということに関して、いままさに、村田先生から、全般にかかわる論点整理をしていただくことができました。
 法科大学院教育のあり方全般にも広く御言及いただきましたし、あるいは、その先で問題となってまいります司法修習との役割の比較あるいは役割の分担といったような話がありました。  

 振り返ってみますと、2004年4月に発足しました法科大学院制度ですが、その2004年4月は、当然のことながら、早稲田大学の法科大学院にとって開校の時期でありますと同時に、ひとり早稲田大学だけではなくて、全国の法科大学院注6にとっても、その時がスタートラインであったわけで、今ちょうど満二年が過ぎたところで、年度で言うと三周目に入ってきました。
 そこで、この二年を顧みてどうであるかというお話をしてみたいと思うんですけれども、いま村田先生からもお話があった通りなんですが、法科大学院制度というのはいわば一種の革命でありますから、法曹養成制度にとっても革命と言ってもよいという部分があります。そして、革命を果たすためにはまず一方では標語といいますか、スローガンですね、それが必要であります。

 いろんな標語、スローガンをまず用意して整えるということを人々がしたのが、 発足に向けての2004年4月までの時期であったし、それ以降のこの二年間であったように思えます。
 「理論と実務の架橋」というのも一つの標語、スローガンでありましたし、あるいは来るべき司法試験が実務的なものでなければいけないというのも、一つの理念の表明として受け止めることができると思います。 革命を行うためにはスローガンが大事ですが、しかし、もう一つ言われなければいけないことが、スローガンだけでは物事は動いていかないということです。実は、ここまで我々が歩んできた中で、標語、スローガンはかなり整ってきました。で、今のような理論と実務との架橋ということそれ自体について、それには絶対に反対だというような人はもうほとんどいないと思います。  

 ただ、問題は同じ旗のもとに、あるいは同じスローガンの下に集まっている人の間で、具体的に架橋とは何なんだという、その実行といいますか、実践の場面になってくると、私の見るところでは、相当の意識の開きといいますか、イメージの多様な部分があるような気がします。
 私達教える側にとってもそうですし、学生諸君のほうにとっても、何が理想的な架橋なのかということについては、実はいろいろな見方があって、そういうところから若干の混乱が生じているようなことも、いま村田先生からお話を頂いた部分にあるのではないかと思います。

 さて、そうするとこれからは、架橋は当然であるが、どのような架橋であるべきなのか、あるいは司法試験についても実務的な出題というけれども、実務的な出題とはどのような出題なのか、といったふうに、一個一個つめていかなければいけない段階に入っているんだろう、そのようなことをお話を伺っていて感じました。

◆早稲田の学生の勉強ぶりはどうか

山野目:
 そこで、次に村田先生にですね、今お話いただいたような一般的な論点整理の次の事柄としてお尋ねしてみたいのは、早稲田大学の法科大学院の学生を二年間にわたりご指導を既に頂いている実績をお持ちでいらっしゃるわけなのですが、ずばり早稲田大学の学生は見ていてどうなのか、これをお尋ねしてみたいのですね。

 実はちょっと紹介が遅れたのですが村田先生御自身も早稲田大学の卒業生でいらして、早稲田大学では卒業生のことを校友とお呼びしているんで、早稲田の校友のお一人でいらっしゃいます。ですから、ご自身がおられたときの様子との比較としておっしゃっていただいても良いのかもしれませんし、司法研修所の教官でいらした経歴を踏まえ司法修習生との比較でおっしゃって頂いてもかまわないのですが、法科大学院の学生を指導していて率直にお感じになるところを、伺ってみたいと思うんですが、いかがでしょうか。

村田: 私は学生時代や司法修習生時代には、あまり勉強した方ではなかったので、私がいうのもなんですけども、早稲田大学の法科大学院生を二年間見た限りでは、非常によく勉強しているのでないかと思います。

学生: (笑い)。

村田: いや、これはお世辞ではなくて、現在の東京地方裁判所に来る前には司法研修所というところにおりましたので、司法修習生の勉強ぶりといったものも良くみておりますが、勉強量的には、司法修習生よりもはるかに勉強していると思います。
 ただ、そこはやはり、立場の違いもあり、司法修習生は、既に司法試験は合格しておりますので、後は二回試験を残すのみであるのに対し、皆さんは司法試験という難関を残しているということで、大きな違いがあるとは思いますけれども、その違いを考慮しても、勉強量、勉強時間としては皆さんの方がかなり上であると思っています。
 したがって、司法試験にもかなりの確率で合格してくれるものと期待しておりますし(笑い)、現実にそうなってくれるものと思います。

 そういう意味では、早稲田の学生はよく勉強してくれており、レポート課題等にも一所懸命に取り組んで、判例・学説などについてもよく検討しているように思います。判例・学説の長所・短所などについても、よく調査をした上で自分の頭で何が問題かと考えて、結論を出そうという姿勢も感じられて、嬉しく思っています。
 例えば、司法研修所で修習生に対し、準消費貸借の考え方注7について述べなさいというと、原告説、被告説のどちらがよいかということですが、従来の司法研修所民裁教官室の多数説は原告説という立場を採用していたことから、原告説の立場に立って論ずれば事足りるということで、それだけを勉強してきて、それを前提として答案を書くということでよいと考えてしまいがちです。
 ところが、実は、その準消費貸借契約の理論に関する判例・学説には、原告説・被告説だけでなく、それらとは別に、折衷説という立場もある。しかも、いろんなタイプの折衷説があるのですね。にもかかわらず、そのような折衷説については、司法研修所などではあまり議論しないことが多いのです。
 そのようなことから、司法研修所では、教官も司法修習生も、原告説か、判例のとる被告説かに立って問題を論じていれば足りるところがあるのですが、法科大学院では、原告説・被告説のほかに、折衷説について勉強してきて論ずる学生が多いですね。議論のポイントもよく把握していますし、原告説の悪いところ、被告説の悪いところ、理論的に弱いところなどを把握した上で、だから折衷説を採用すべきだという議論を展開する学生が多いように感じています。

 そういう形で論理を展開し、自分の頭で考えた上で、折衷説が単に真ん中で中立そうだからとか、事案に応じて使い分けられて柔軟そうだからということではなく、原告説と被告説のそれぞれの短所、長所を考えた上で、折衷説がいいのではなかろうかというレポートを書いてくる学生が少なくありません。総じて、早稲田の学生は、自分の頭で考えようという姿勢というか、勉強のスタンスを持っていると思っています。少し褒めすぎかもしれませんが(笑い)。

 先ほど、レポート課題について触れましたが、レポート課題も非常に真剣に取り組んで、学生同士でもよく議論などをしています。より深い勉強をしようという意気込みが感じられて、大変嬉しく思っています。以上のような点が、早稲田の学生の良い点だと思います。

 早稲田の学生の悪い点といいますか、問題点ということですが。これまで二年間にわたって、2回ほど期末試験などをやりましたけれども、上位層と下位層の極端な分化という現実があるのではないかと思っています。
 これまで司法修習生をみておりましたので、旧司法試験組であるこれまでの修習生との比較でいいますと、法科大学院の上位層に位置する学生は、修習生と同等かそれ以上の実力があります。ところが、中間層はほぼ同じようですが、下位層に位置する学生は、司法修習生の下位層に比べて、その幅が厚いといいますか、裾野が広いといいますか、非常に下の段階までずっと続いているというような印象を受けています。

 このような現実を踏まえて考えますと、下位層にいる学生が本当に法曹になるだけの能力があるのかないのかということもさることながら、一所懸命に勉強している「はず」なのに、どうして伸びてこないのだろうか、何故法的な思考力が十分に涵養できていないのだろうかという問題について、教員の側でも考えなければいけないのではないかと思っています。
 特に、もうすぐ法科大学院設立から3年ということで見直しの時期が来ますから、それを前に、下位層の学生のボトムアップのための方策、あるいは学生の全体的な学力向上のための方策といったことなども、法科大学院として行うべき見直し作業の一つではないかと思っております。

山野目: ありがとうございました。
 今まさに具体的な素材を村田先生から頂いたので、やや脱線気味でお話をさらに発展させてみたいというふうに思います。上位層と下位層に分かれているという部分は、私も似たような印象を持つ部分がありまして、早稲田大学って言うのは、いろんな部分に関して言えることなんですけれども、大人数のオーケストラであると喩えてもよいですし、あるいは非常に、レフトとライトのウイングがですね、翼が長い巨大なジャンボジェット機に喩えてもよいのですが、全体をコントロールしていくのが、非常に多様性に富んでいて、難しい部分があるように感じます。

 教室の現場でもそうであります。準消費貸借のところの原告説と被告説のあたりのところは、折衷説のところまで含めて非常にきめ細やかなところまで議論しますと、要件事実論というよりも民法の思考の奥行きをあぶり出す良い局面だと思うんで、できる限りきめ細かく扱いたいと思うと同時に、お話に出た下位層の人も同じ教室の中にいるということも考えなければなりません。
 すると、お話を細かくしていけばしていくほど、もう、ちょっとついて行けないから勘弁してくれと言うような顔をしている人もいるかと思うと、折衷説を含めた先端的な議論が、もう楽しくて仕方がないという顔をしている学生も同じ教室の中にいるんですね。

 教師としては、巨大なオーケストラの指揮者の状態になってきて、指揮棒をふるってどっちもこう輝かしてあげたいんですけれども、時間の制約もありますから、最後のところ、難しくなってくると、「細かなところはあるけれども、原告説と被告説と・・・」、みたいにやっちゃったりすることもないではない。
 しかし、それをしてしまうと、今度はまた、話は非常に単純化されて、図式化されてしまって、いわゆる下位層の人たちは余計、要件事実論みたいなものを単なる暗記、というか図式的な長短の比較だけで終わってしまうような議論であるようなイメージをもってしまうという部分もあって、ここは非常に教える側の技量が問われますけれども、難しいというふうに感じますね。


◆要件事実教育における今までの司法研修所の役割


山野目: それから、もう一つ、この機会にぜひ村田先生にお話し頂きたいというか、ご紹介頂きたいのですが、まさにその準消費貸借のところっていうのは私たち外部から拝見していて、ちょっと面白いと思うのは、珍しくと言ったら語弊があるんですが、司法研修所の教えていることと判例が違うんですよね。
 で、それが唯一かというのは、私はちょっとそこまで勉強していませんけれども、概ね司法研修所に対して人々が抱いてきたイメージというのは、最高裁判所の見解に対しては、追従という言葉は無礼かもしれないけれども、そんなに不一致はないし、あるいはこれも外部から見ていたときに往々抱きがちな偏見なんですけれども、司法研修所の先生方の間でも、そんなに意見の齟齬がなくてですね、判例の言うとおりに修習生に淡々と、というか場合によっては非常に居丈高にですね、教えているんではないかというイメージが、少なくともかつての司法研修所に対してはあったと思うんですが、今のような素材を拝見したり、或いはいろんな場面を伺っていたりすると、けっしてそうではないという部分が見えてくるように感じます。

村田: 判例が示す要件事実論を、結論のほか、その立論の理由、条文上の根拠、あるいは理論的な根拠は何か、実際上どのような事情が考慮されているかといったことを含めて、まず認識、理解しなければいけないというのは、実務家になるのですから当然だと思います。
 また、司法研修所では、理論としての要件事実を考える場合には、皆さんご存じのとおり、法律要件分類説注9というものに立っています。最近では、修正された法律要件分類説といわれますけれども、理論としての要件事実というのは、このような法律要件分類説を前提に考えられています。そして、この法律要件分類説の立場から、要件事実論の理論を突き詰めることもこれまでは司法研修所民事裁判教官室の役目と考えられていました。さらに、その理論的に突き詰めた部分を、要件事実教育ないしは民事裁判教育というものの中で、どう位置づけて、どう展開していくかということを考えるのも司法研修所の役目とされていました。

 理論としての要件事実と、教育としての要件事実が同じでいいかということは、実は議論のあるところなのですけれども、現時点では、教育上の配慮あるいは教育目的の達成といった観点からすると、それらは違っていてよいのではないか、あるいは違っていて当然ではないかと思っています。
 理論としての要件事実は、法律要件分類説を突き詰めたらこうなりますということを示す必要があります。しかし、実際の事件では、実に様々な事情が出てくることがありますね。ですから、適正な裁判という観点から、事情によっては、基本的な部分は維持するけれども、細部は個々の事情に応じて変えるということも可能だし、大切なことであろうと思うのです。

 理論としての法律要件分類説の考え方と、実際上の考慮を容れて具体的な事件における妥当性をより追求しようという考え方とが、対立するような形で現れたのが、先ほど述べました準消費貸借の旧債務の存否についての主張立証責任の所在という問題ではなかろうかと思います。
 司法研修所民裁教官室のこれまでの多数説が原告説に立っていたのは、法律要件分類説は条文を大切にする、条文構造を大切にして、それに、公平性、証拠との距離、立証の難易とかを考えていくべきであると捉えますから、民法の条文を素直に読むとこれは原告説となるのではないかということです。そして、判例が言っていることを考慮するにしても、すべての事件でそういう事情を考慮しなければならないかというと、そうでない場合もあるのではないかと、そのような事情は、事件ごとに適宜「事実上の推定」とかですね、そういう道具でフォローしていけば、何とか間に合うのではないかと、そういうような感覚を、これまでは、民裁教官の多くの方がもっていたということではないかと思います。
 

 司法研修所では、まず理論の府として、理論的かつ基本的な物の考え方、あるいはできるだけ応用の利く普遍的な考え方といったものを修習生に教えたいということがありますから、そのような観点から、修習生には、原告説をまず教え、それを学んでもらおうということであり、その上で、判例はこういう事情で被告説に立っているのだということも併せて考えてもらえればということだと思います。そのような方法で、原告説と被告説の違いが何故出てきたかといったことを学修して欲しいと考えているわけです。
 そのように考えますと、理論的な原告説、理論的といったら、反対説の論者から叱られるかもしれませんけれども、より理論的であると思われる原告説でまずは考えてみてはどうか、ということにすぎないのではないかと思います。

 他にも同様の問題があります。例えば、本人構成でAとBが契約したと主張している場合に、証拠によれば、A代理人CとBが契約したと認定することも、判例注9では可能だといわれています。本人構成の主張しかないのに、証拠によって代理構成と認定することも可能で、そのような認定をしても弁論主義に反しないとしていますね。他方、司法研修所では、それは原則として弁論主義違反だと考えています。ただ、実際の事件では、いろいろな事情を考慮して、救われるべき者はどうしても救わなければならない場合もあるでしょう。そこでは、現実のいろんな事象、両当事者の実質的公平、攻撃防御の機会の実質的な保障といった事情などを考慮して、それが弁論主義違反だとまではいわなくてよい場合もあるということです。先ほどの判例は、そのような考慮が現れた場合と考えられませんか、などと教えるわけです。
 ただ、理論的に弁論主義違背ではないかというと、理論的には弁論主義違背というべきでしょうという観点は、研修所としては、忘れないで欲しいということです。ですから、修習生に冗談でよく言うのですけども、「研修所は理論、実務は結論」だということです。これは、民事・刑事を問わず、そのように言えるのではないかと思っています。やはり、司法研修所では、結論よりもまず筋道、物事の筋道や考え方を重視したいという姿勢や気持ちが強く現れていて、それが判例とは違って見えるということではなかろうかということです。

山野目: 学生諸君にも、少し尋ねてみましょう。村田先生からはまず、非常によく勉強しているというお褒めの言葉を頂きましたし、しかし、それと同時に学生諸君が必ずしも一枚岩として一丸そうなっているというわけでもなさそうだというような、やや、苦言も頂戴したんですけれども、何か問題提起を頂けますか。

 

◆司法研修所に対して人々が抱いてきたイメージ

学生: 私は、研修所においてどのような授業が行われているかに関して、具体的なイメージがないのですが、結論はこっちだ、筋道を推し進めるとこうなる、といった授業なのでしょうか。法科大学院における議論は、幅広いといいますか、実務に関してかなり批判的なことでもオープンに議論しているのですが、研修所においてもそういったオープンな議論は行われるんでしょうか。

村田: オープンというのは、どういう面でのオープンという意味でしょうか。

学生: 先ほど山野目先生がおっしゃっていたように、今までの研修所のイメージというのは、誤解なのかもしれませんが、実務の現状をたたき込むというイメージがありまして、仮にそうだとすると、そこには議論の余地はあまりないのではないか、そのような面についてです。

村田: そういう意味では、オープンな議論はできます。例えば、実務はこういう点で問題であるから、こういうようにした方がよいと思いますというような議論は大歓迎です。司法研修所の教官は、現在の実務が最善だとは思っていません。修習生になって、実際にみてもらうと、司法研修所あるいは裁判所では、それぞれ、いろいろなところで、実務のあり方を改善しようというような動きや議論をかなりしてきています。
 そういう意味では、研修所においても、実務への批判には非常にオープンに対応しています。ただ、司法修習生や法科大学院の学生にまず心掛けて欲しいことは、実務の現状を正確に知るということです。

 実務を批判するためには、実務はなぜそうなのか、結論として実務はこうだというだけではなく、それはなぜそのように考えているのかということを知ってから、批判すべきだと思います。ともすれば、学生は実務を知らないでこういう学説があるじゃないですか、この学説の方がいいじゃないですか、何故この説を採用しないんですかと批判してくるわけですね。しかし、まず実務はこういうことになっていて、この理由はこうですよということを理解する。その上で、それでもやはりここはおかしいですよというような議論だと、建設的な議論でよいと思いますが、いや、結論がおかしいからこっちの学説でいいじゃないですかというような議論ですと、建設的な議論になりませんので、そのような場合には、もう少し判例をきちんと勉強してから議論しましょうと言っています。ですから、実務のあり方とか、実務の考え方の根拠を知ったけれども、やはりそれを考えてもこういう考え方がいいですよと、一理ありますよという形の議論は、非常にいい議論だと思います。そのような議論は、むしろ教官として積極的に勧奨しているくらいです。何の根拠もなく、実務の伝統的なあり方は墨守すべきだとか、判例には何が何でも従うべきだなんていう考え方をもっている教官や裁判官はいないですね。それは、声を大にして申し上げたいですね。


山野目:
 私の限られた経験の範囲ですけれども、司法研修所の教官の先生方といくつかの場面で議論する機会に恵まれたことがありますが、実際に議論して感じることというのは、まず、司法研修所での議論の仕方というのはシャープですよね。ただ、外から見た人々が往々感じるイメージは、シャープではなくて、スクエアなイメージを持つんですよ。非常に硬直的なイメージを持たれがちなんですが、一緒に議論をすると、スクエアではなく、シャープさ、つまり鋭利さがあって、議論が非常に細かくとぎすまされていくもんで、それが逆に、堅いんではないかというイメージを持たれがちなんですけれども、あれは、べつに閉じられた議論なのではなくて、とことん理論的に突き詰めましょうというのを大切にした結果、ある種醸し出される雰囲気なんだと思うんですね。

 今まで司法研修所と大学の教育が交流する場面というのは非常に限られていたためもあって、偏見が非常に増幅されるというか、拡大再生産されてきた部分があるんですけれども、これからは、司法研修所のほうも、外に向かってオープンにいろいろなものをアピールしていく努力をなされるんでしょうし、そうすると、そういう見方は今後かなり変わっていくんではないかと思いますね。


村田:
 これまでの司法研修所に対する誤解が解消されることを大いに期待しています。

 

3.第二のキーワード-「理論と実務の架橋」

山野目: 今日のもう一つのキーワードであります「理論と実務の架橋」ということについて、今度は少し具体的な素材を用いて考えてみたいと思います。

 司法制度改革審議会の意見書を改めて読みますと、理論と実務の架橋ということを単なるお題目として言っているんではなくて、非常に具体的に、ある意味では異例なことなのかもしれないんですけれども、特定の分野を指定して、こういう観点に留意して架橋するべきだということを言っているんですね。
 それは何かといいますと、要件事実論や事実認定の基本的な部分、基礎的な部分が例えば扱われることが考えられると、そういうふうに指定しています注10。そういう意見書をふまえて各校の法科大学院教育の取り組みが2004年4月以降始まりました。


 早稲田大学の場合にも、もちろんそういうことに留意して、カリキュラムの編成をしましたし、それを2年間にわたって実施してきたところです。
 ちょっと確認してみますと、例えば、まず何よりも挙げなければいけないのが、臨床系のいくつかの科目があります。学生諸君もよくご存じだと思いますが、エクスターンシップやクリニック、さらに模擬裁判などの科目注11があります。
 さらには、そういうフィールドワークではなくて、教室で行われる科目の中にも、実務基礎系と呼ばれる科目があって、刑事訴訟実務の基礎、あるいは民事訴訟実務の基礎といった科目が設けられています。今日の対談のお相手である、村田先生には、民事訴訟実務の基礎を二クラスお持ち頂いております。
 さらには、これもまた重要なことだと思うんですけれども、理論と実務の架橋と言うときにしばしば誤解されていますが、実務系の科目を置いておけばいいんだと、そこで実務家教員の先生方に教壇にあがってしゃべってもらえばそれでいいんだと、あるいはですね、学生諸君がクリニックに参加すればそれでいいんだと、そういうふうに誤解されがちな部分があるんだと思うんですが、そうではないと思います。

 民法とか刑法とかという基本的な科目を教えるときにも、どう工夫するかというのは、それは大いに議論がありうるんですけれども、むしろそこでこそ実務との架橋ということが意識されなければいけないのではないでしょうか。
 そういう観点を含めて、本学の場合には二年次に刑事法総合、民事法総合という科目を置いています。その中で、例えば民事法総合Ⅲというのは、今日の対談のお相手である村田先生と私と、それぞれ一クラスずつ担当させて頂いております。そこではかなり理論的なことも扱いますけれども、まさに司法制度改革審議会の意見書が言っていた要件事実論の基礎的な部分も扱うことが行われてきています。


 学生諸君も既にそのようなカリキュラムの相当部分を体験してこられました。こういったことを確認させて頂いた上で、この架橋を具体的にどういうふうに仕組んでいくか、その場合の留意点はどういうことなのかということについて、村田先生から、お感じになりましたことをお話し頂ければありがたいと思います。

村田: 若干前後するかもしれませんけれども、まず法科大学院の教育のあり方について若干補足しておきたいと思います。
 法科大学院はご存じのとおり、実務家法曹としての基礎を作るものでありますので、まずここで鍛えてほしいのは、法曹としての基礎的素養とバランス感覚です。
 そのためには、応用や実務ばかりではなくて、基礎的なことの大切さ、あるいは、法的な思考力を付けることの大切さというものを自覚して学修してもらいたいということです。

 今は、理論と実務の架橋ということで、特に、実務の基礎的部分を教育するということなのですけれども、実務の基礎的部分というのは、現実の実務がどうなっているかを知るということではなくて、先ほども言いましたけれども、実務はなぜそうなっているのかという、いわば背景にあるもの、実はこの背景にあるものは、理論法学といいますか、民事実体法であり、民事訴訟法でありますが、それらの理論を踏まえて、現在の実務があるということをまず知ってもらいたいのです。
 ともすれば、実務は理論とは違うと、民事実務と民法は全く違っていると、あるいは民訴法の理論と実際の現実の民事裁判は全く違うと思っている人が少なくないのですけれども、そのような考え方、見方は全くの誤解で、裁判官を含めた実務家は、実は民訴法の理論と民法の理論を非常に大切にして実務を運用しているつもりなのです。
 仮に、理論と実務が違うように見えるのであれば、それはなぜ違うのか、なぜ違うように見えるのかということを勉強してもらいたいのです。そのようなことを学修するのが法科大学院であると思っております。
 そのためには、実はこれもこれまで2年間やっていてずっと感じていることなのですが、民事法の分野では、特に民法と民事訴訟法についての知識といいますか、思考力の基盤となる部分が、法科大学院の学生には全般的に不足しているように思えてならないのです。

 このような民事法の思考力の基盤となる部分をどのように身に付けていくかということを考えることは、法科大学院における今後の課題であろうかと思っております。そして、法科大学院では、特に民法・民訴の理論をがっちり固めてもらって、その上で、それを基本にして、実務を少しみてもらう、体験してもらうという程度で足りるのではないかと思っております。
 私は、判例や学説の論理の展開・流れといったものをしっかりと理解し、そのことを基礎において自分の頭で考え、判例や学説を用いながら具体的な事案について検討するという作業を何度も繰り返すことによって、いわゆる足腰が鍛えられるのであろうと思っております。

 早稲田大学の法科大学院の場合には、臨床教育、リーガル・クリニック、エクスターンシップなども非常に充実しております。それはそれで、実務法律家になるためのモチベーションやインセンティブを高め、これを維持するためには、非常に良いことだと思っています。ただ、実際の実務家になるためには、民法の理論と民訴法の理論とをしっかりと押さえておかないと、実は足腰の弱い実務家になってしまって、定型的な問題しか処理できない法曹、何か新しい問題が生じたときに、自分で切り開いて最適な解決策を見出す能力のない法曹となってしまうのではないかと危惧しています。そのような法曹にならないためには、民事系では、民法と民訴の勉強を十分にしてもらいたいと思います。
 法科大学院の教育においては、まず解決すべき事案が与えられた場合、第1段階として、この事案の問題点はどこだということを把握・確認します。次に、第2段階として、その問題点に対してどのように解決するかということを分析・検討するのですが、その際には、関係しそうな条文・学説・判例を確認して、それらはこの事案で使えるのかどうか、どのように使うのかを検討することになります。第3段階として、事案に即した形で、判例・学説についてその根拠と問題点は何かという分析・検討を行う必要があります。第4段階として、現在の実務や判例に問題があるということであれば、どこに問題があるのか、それを克服するためにはどのように考えるべきかといった点について、双方向、多方向ということを意識しながら、学生同士あるいは教員を含めた形で議論を進めるのがよいのではなかろうかと思います。

 そして、このような教育手法では、第1段階と第2段階、つまり、事案の問題点を把握し、一般的な法律知識である条文・学説・判例を確認・検証するというところまでが基礎的な部分であって、これを基に、事案に即した形で、判例・学説、実務のあり方についてその根拠と問題点を分析・検討するという第3段階以降、実はこれは応用編ですが、これがいわゆる実務に必要な法的思考力の基礎を形成することに繋がるのではないかと考えています。
 そうすると、法科大学院では、十分な予習復習を前提として、教室の場において、自分の頭で考えること、他人の意見にも耳を傾けてその言わんとするところを理解すること、その上で、自分の意見を的確に説得的に表現することができること、そのような能力を涵養することが大切であろうと思います。

 実はですね、これは半分冗談みたいなものですけれども、法曹養成というのは、自動車の教習所に例えられるのではないかと思います。
 皆さん、免許を持っておられますよね。自動車の教習では、まず法規とか自動車の構造といった勉強をします。法曹養成においては、これが実は学部教育であったり、法科大学院の初期の教育に対応しているのだと思います。そのような教育が一通り終わると、学科や構造の勉強と並行して行われるところもあるようですが、教習所という箱庭のような教習用コースで実技教習をします。これが、これまでは司法研修所における前期修習だったのです。要するに、クランクがあったり、非常に難しい車庫入れや坂道や踏切などがあったりしますが、ただ、安全なことに、対向車もあまりなく、歩行者もいないというところでの教習です。そして、これまでは、司法研修所における前期修習を受けるためには、法規と構造の試験である司法試験に合格しなければならず、この試験に合格しなければ教習用コースでの実技教習さえさせてもらえなかったのです。そして、学科である学部教育及び司法試験と、実技である司法修習との間にはその内容において大きな違いがあったのです。箱庭的な教習コースで訓練した後、仮免を受けて、受かったら路上教習を受けます。路上教習では、対向車があったり、工事中の場所があったり、バイクや歩行者が通行していたりといった、ある意味で安全が保障されていない状況で実技指導を行います。これが実は、司法修習における実務修習と似たようなものではないか。そして、その後、卒業検定というのがありますよね、これが二回試験に相当するのではないかと思うのです。

 ところが、新制度では、法規・構造の勉強というのは、学部教育や、法科大学院の1年生で行います。そして、教習所内での実技指導、教習用コースでの実技教習は、従来の制度ですと、司法研修所における前期修習であったものが、法科大学院における実務教育になったのではないかと思います。そして、仮免が新司法試験であり、仮免に受かった人が路上で実技訓練を受けるのが、司法修習であって、卒業試験がいわゆる二回試験であると、そういうふうに考えることもできるのではないかと思っております。
 法規や車の構造といったもの、司法の分野でいえば、法律の構造や制度論、法解釈学といった理論面の問題も大切なのですが、実務ではいわゆる実技も大切なのです。そういうことで、実務の基礎も勉強してくださいというのが、法科大学院の理念ではなかろうかと思うのです。

山野目: 自動車教習所の喩え、大変よくわかるお話ですね。まさにそういうイメージを持ちながら、理論と実務の架橋ということをすすめていかなければならないと思います。
 お話ししたように司法制度改革審議会の意見書が具体的な素材を特定して要件事実論を、法科大学院で基礎的な部分については少なくとも取り扱ってください、ということを要求しているということを受けて、そのこと自体は全国の法科大学院の関係者が知っているわけですし、学生諸君にも浸透してきます。かつて司法研修所がもっぱら要件事実を教えていた時代から比べると、要件事実論は大きく展開しはじめていて、その辺のことというのは、様変わりを見せつつあるようにも思えます。

 しかしながら、その一方で、要件事実論が重要であるという意味、あるいはなぜ必要であるのか、なんのために学ぶのかということについては、必ずしもコンセンサスがまだ得られているようには、私には見えません。
 一面では非常に加熱した要件事実ブームといってもいいくらいの状況が生じてきている部分もあります。あるいは学生諸君の中にも部分的には、要件事実オタクというふうに言うと悪いですが、そうではないかな、というようなイメージを持たざるを得ないような方もいます。

 そこで、これからの要件事実論に求められることを、まずは、実務的観点から、あるいは学術的観点からちょっと検討してみたいと思います。そういうことを考えるうえでは、村田先生の方から、必要な範囲で結構なんですけれども、おそらく司法研修所が要件事実教育を重視して、行い始めたというのは、ある日突然そうなったわけではないはずでして、何らかの経験があってそういうことになったと思いますから、そのあたりのことも含めてご存じのことをお話し頂きたいと思います。

 

◆司法制度改革審議会の意見書が指摘していたこと

村田: 司法制度改革審の意見書を読みますと、目を引く表現が教育内容及び教育方法というところにあります。理論と実務の架橋ということが声高に言われていますけれども、法科大学院では、法理論教育を中心とするということが謳われている注12のですね。
 どうも理論と実務の架橋というところばかりに目が行きがちですが、司法改革審が、法科大学院では法理論教育を中心とした勉強をすることを求めているということは、忘れてはならないことだと思います。
 その中で、実務教育の導入部分の例として、山野目先生からもご紹介があったとおり、要件事実や事実認定に関する基礎的部分の勉強を挙げています。
 そこで、理論と実務の架橋という部分で、なぜ要件事実と事実認定に関する基礎的部分の勉強ということが挙がったのかということについて考えてみたいと思います。

 まず、事実認定についてですが、ご存知のとおり、法学部教育において事実認定の学修というのはあまりされていなかったということです。事実認定に関する民訴法、刑訴法の理論は学修するのですけど、実際にどのように認定すべきかということは学修してこなかったのです。
 ところが、実務ではまず事実認定ありきということになるのです。事実認定があって初めてどの法律を適用するかが問題になるものですから、理論と実務の架橋という意味では、まず、目が行くところであったのです。
 次に、要件事実がなぜ採り入れられたかということですが、要件事実教育も、従来は司法研修所が中心で、法学部ではあまりされてこなかった。けれども、実務のあり方を考えますと、要件事実という思考がなければ、民事裁判をうまく運営することができないことは明らかです。
 何故かというと、真偽不明ということがあるからですね。要するに、民事裁判では、ある権利が発生するための法律要件はこれだと分かっていても、その要件があるかどうかが分からないときにどうするかという問題が必ず起こるのです。これが主張立証責任、特に立証責任の問題です。そして、主張立証責任をどのように割り振っていくかということなしには、民事裁判というものは成り立っていかないのです。だからこそ、民事裁判において要件事実的な思考は必要欠くべからざるものだと考えられているのです。

 これまでは、不幸なことに、要件事実は民法とは違う裁判規範を立てるものであって、民法ではないなどと言われた時期もありました。しかし、私は、要件事実論は民法学の一分野であると思っています。判例と学説を前提とした条文の解釈学に過ぎないと思うのです。ですから、要件事実論は民法の一部門なのです。そして、その意味では、要件事実論が独立した別個の学問として存在するというわけではないのです。要件事実論は民法の解釈学であるという認識を持つことの大切さを強調しておきたいと思います。司法研修所の教官を含む法律実務家は、要件事実論は、民法とは違う学問であり、民法とは別個の学問だと思っているのではないか、司法研修所の教官は要件事実論を教えているのであって民法を教えているのではないなどと、学者の方から言われた時期もありました。
 しかし、実は、裁判官は、民法を事件に適用して裁判をしているのであって、民法の実際の事件における発現形態として要件事実というものを考えています。ただ、そうはいっても、民法は、行為規範であるとともに裁判規範でもあるといわれています。行為規範という意味では法律要件がすべてで、実体法上の法律要件が重要ですが、裁判規範という意味では先ほど言った真偽不明ということが出てくるものですから、要件の割り振りをして、誰が主張すべきことなのか、誰が立証すべきことなのかということを明確にしておかないと困ってしまうということになります。真偽不明になったときに、その場その場で適当に考えれば足りるものではないであろうということです。
 そして、裁判には予測可能性が必要ですから、こういう事態であれば、必ず原告に主張立証責任がある、だから、これが真偽不明である以上原告が負ける、という予測可能性というか、科学性、汎用性といったものをもたせなければいけない。それを考えるのが要件事実論であろうと思います。


 実際の裁判実務をみてもらうと、要件事実というものの基本的考え方を前提として、民事訴訟が運用されていることに気づいていただけるのではないかと思います。法律実務家にとって、要件事実は民事事件を扱ううえで、有用かつ必須のツールであろうと思います。要件事実論は崇高な理論でも、難しい学説でも何でもありません。単なるツールです。民法学と民事訴訟法学を前提として、それで実際の民事裁判を運用するための、あるいは法的紛争事案を分析するためのツールであると考えています。ただ、そういう意味では、ツールとはいいながら、法律実務家の基礎的素養をなす一つの大きな要素ではあります。そして、このツールを使えないような法律実務家は、現実の裁判で、何を主張立証したらいいのですか、と裁判官に聞くような、悲しい状態に立ち至ってしまいます。

 

◆要件事実は法律家の共通言語

村田: また、要件事実論は法律実務家の共通言語であるともいわれています。例えば、債務不履行に基づく損害賠償請求でも、売買契約に基づく請求でも、裁判官と代理人あるいは代理人同士が話すときには、要件事実を前提としたやり取りをします。それは、要件事実論からいうと、売買契約の要件事実、あるいは消費貸借の要件事実はこれこれであって、現在はこれとこれが訴訟において出てきている、でもこの事実が足りないでしょう、これはどういうことなのですか、というようなやりとりを裁判の現場で行うためには、基礎的な素養としての要件事実の考え方はしっかり持っておかなければならないと思います。
 そういう意味では要件事実を離れてしまっては、実務における模範的な訴状、あるいは模範的な答弁書・準備書面といわれているものは書けないのではないかと思います。判決を書くときだけではなくて、訴状や答弁書、準備書面を書くためにも、あるいは何が主要事実で何が間接事実で、何が補助事実か、それを区別して、的確な立証活動をするためにも要件事実がいるのですね。

 例えば、請求原因の要件事実を欠く訴状が提出されたとします。裁判官はこれを補正しなければなりませんね。補正すべきかどうかも要件事実を前提に決めます。仮に、要件事実を欠く訴状が補正されなくて、第一回弁論期日で相手方が欠席しました。とすると、訴状に要件事実が足りないが故に、擬制自白も使えないので、欠席判決ができないことになります。本来ならば、第一回の期日で終わってすぐに欠席判決を受けて執行に入るところが、要件事実が足りないために、必要な主張を補充し、再度期日指定をしなければならないことになります。本来であれば欠席判決を得ることができるにもかかわらず、そういうことさえ起こってくるのです。
 つまり、要件事実に関する知識を欠いていては、民事裁判の円滑な運用はできないのです。争点整理手続とか、集中証拠調べとかも、要件事実なしには十分に成し遂げられないのです。

 ただ、要件事実論には二つの異なる側面があると思っています。一つは理論としての要件事実論、一つは教育手法としての要件事実論です。これらはともすれば同一に見られがちですが、まったく別個に考えておくべきものであると思っています。理論としての要件事実は、今後山野目先生をはじめとする民法学者の先生方を含めて、より精緻に、より緻密に議論がなされるものと期待しています。他方、教育手法としての要件事実は実はあまり細かいところに入らなくて、基本的な要件事実の考え方と、素養を持って条文をみた場合に、どのような要件事実を主張・展開すべきか、という粗いところが理解できていれば、教育手法としての要件事実論は足りるのではないかと思います。  

 要件事実論に対してよくある質問として、それでは裁判官は細かい要件事実論をそのまま実務で適用して判決を書いていますか、というものがあります。これは誤解されがちなところですが、もちろん裁判官は理論としての要件事実の考え方を適用して裁判をしていますが、それとは別に、判決書とか、準備書面とか、実際の裁判では、要件事実のほかにも大事なことがあるわけです。理論的に詰められることも大切ですが、分かりやすいこと、あるいは納得できることというファクターも、実務では非常に大切なのです。そして、要件事実の基礎の上に、それらの事情をも加味して判決や準備書面は書かれているのです。
 そうすると、判決には要件事実以外のことが沢山書かれることとなります。そのような判決をみると要件事実以外のことが沢山書いてあるではないか、これでは要件事実論に基づいているとはいえないのではないかという人がいます。しかし、それは見方が間違っていると思います。それは、要件事実論を適用しつつも、こう書けば分かりやすいということで分かりやすさを、あるいは納得してもらいやすさというものを考慮に入れたからそのような判決となっているのであって、純粋理論としての要件事実とは違う要素が含まれているということを理解して欲しいと思っています。

 それから、教育的手法ということでも、やはり実際の判決と違うところがあります。例えば司法研修所での要件事実論がそのまま実務で使えるというわけではありません。教育の場面では、理論的な考え方をしてもらうためにいわば足腰を鍛えています。それは教育のためです。実務は議論や教育のための場ではありません。問題を解決するため、あるいは納得してもらうためにどうしたらいいかということを考える場です。そのあたりの要請というか、目的というものが全く違うのです。ですから、要件事実論は実務では使われていないという意見は、要件事実論と実務との関係等を良く理解されていないことによる誤解あるいは曲解に基づくものであろうと思うのです。

山野目: 村田先生からかなり広範に論点整理をしていただきました。法科大学院における要件事実教育というものに、全国でいま関心が向けられている状況を見ていて、これほどバランスの取り方が難しい素材はないと痛感します。一方においては、要件事実は大事なんだということが過度に強調されて、教える側も学ぶ側も、先ほどオタクという言葉を使いましたけど、のめりこんでいくきらいも無くはありません。 (続く)

 

脚注一覧


注1 平成13年6月12日に、佐藤幸治京都大学名誉教授を会長とする司法制度改革審議会が、一つの意見書を出した。これが、いわゆる司法制度改革審議会意見書である(以下、「意見書」)。意見書はⅠからⅤの五つのパートに分かれ、Ⅲにおいて、司法制度を支える法曹の在り方という論点について意見を取りまとめている。パートⅢの、第2・法曹養成制度の改革という表題の下で、法科大学院のあり方について検討をしており、「目的、理念」の項では、「理論的教育と実務的教育を架橋する」という言葉を明確に用いている。http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/report-dex.html参照。

注2 早稲田大学では、民事法のカリキュラムとして、一年次に民法ⅠないしⅣ、二年次に民事法総合ⅠないしⅢが必修科目として組み込まれている。民事法総合Ⅲは、要件事実論を中心に、民事実体法と民事訴訟法を同程度に混合させて実施される、まさに架橋と呼ばれるにふさわしい科目となっている。

注3 早稲田大学では実務科目として、民事訴訟実務の基礎、刑事訴訟実務の基礎の二科目を二年次に必修として組み込んでいる。両科目とも実務家教員が担当教員として据えられ、学生は実務の基礎的知識を、訴状や起訴状の起案作業などを通して学習している。

注4 意見書のパートⅢ、前文等参照

注5 現時点では、法科大学院の課程の修了を受験資格とする新しい司法試験(従来の司法試験とは全く別制度の試験)に合格した者は、半年間の実務修習を含む1年間の司法修習を経て、いわゆる二回試験に合格した後、法曹としての資格が与えられるシステムとなっている(裁判所法66条・67条、司法試験法参照)。

注6 2006年6月現在、全国で、法科大学院は、74校開校されている(文科省。http://www.mext.go.jp/)。

注7 準消費貸借を要件事実的に検討すると、旧債務の存在をどちらが主張立証するかという観点から、原告説・被告説が対立している。判例は被告説を採用し(最判昭和43年2月16日民集22巻2号217頁)、司法研修所は原告説に立つと言われる(司法研修所監修・4訂 民事訴訟第一審手続の解説-事件記録に基づいて- 46頁-48頁)。他方、松本博之教授(倉田卓次監修 要件事実の証明責任 契約法上巻 471頁-478頁)や森勇教授(別冊ジュリスト146号276頁 証明責任の分配(1)-準消費貸借契約)は折衷説に立つといわれる。

注8 新堂幸司「新民事訴訟法[第三版補正版]」(弘文堂、2005)518頁、上田徹一郎「民事訴訟法[第四版]」(法学書院、2005)378頁

注9 最判昭和33年7月8日民集12巻11号1740頁

注10 意見書、パートⅢ、2.法科大学院、(2)法科大学院制度の要点、エ、教育内容及び教育方法、参照。

注11 ①エクスターンシップ:外部の委託先(法律事務所・企業法務部・官公庁・NGOなど)に学生を一定期間派遣して、担任教員と委託先の指導担当者の監督下において実務を体験させる教育方法、②クリニック:学生が、大学附属公益法律事務所において、弁護士教員の指導の下に、現実の事件処理に関与する教育方法、③模擬裁判:実際の事件を素材にして、教員の指導の下に事件処理を仮想的に行い、現実の実務を追体験する方法。別掲臨床法学教育特集参照

注12 前掲注10引用部分参照

注13 民事訴訟規則53条は、「請求を理由づける事実」のほかに、それに「関連する事実」の記載を求め、かつ、これらを「区別して記載」することを求めている。

注14 例えば最判昭和45年6月11日民集24巻6号516頁。高橋宏志『重点講義・民事訴訟法(上)』392-399頁(有斐閣、2005)

注15 意見書、パートⅢ、第1・法曹人口の拡大、1.法曹人口の大幅な増加参照。法曹の数は市場原理によって決定されるものであると述べている。

注16 司法研修所編『問題研究 要件事実―言い分方式による設例15題―』(法曹会、2003)

注17 司法研修所編『紛争類型別の要件事実 ―民事訴訟における攻撃防御の構造―』(法曹会、1999)

注18 主に注16引用文献において用いられる問題方式であって、シンプルな形式で書かれた当事者の主張を要件事実的に分析する作業を通して、要件事実の本質を学修する方式。

注19 注6参照

注20 注3既出の刑事訴訟実務の基礎。司法研修所で用いられる、いわゆる白表紙を題材として、検察官教員から、捜査、公判の基礎を学ぶ。

注21 要件事実論の優劣の決定は、「解釈論の市場」に委ねられるべきだという加藤判事の見解。「法曹養成教育としての要件事実論」ジュリスト1288号50頁参照。

注22 大判大正3年12月15日民録20輯1101頁, 最判昭和29年11月26日民集8巻11号2087頁

注23 本サイト別稿参照

注24 代表的なものとして、川島武宜『民法総則』289頁以下(有斐閣、1965)、幾代通『民法総則』273頁以下(青林書院、第二版、1984)がある。なお、「予見可能性」という表現がされることもある。