1.はじめに -事案の概要-

-「外出は1日1時間しかできない」- こう制限されたら、私達の生活はどうなるであろうか。

東京都大田区在住の鈴木敬治さんは、平成15年4月1日から平成18年3月末日まで行われていた支援費制度注1 において、当初、外出のために必要な介護を月124時間受けていた。
ところが、大田区は、平成16年4月から、外出のために必要な介護の支給量を月32時間を上限とする要綱注2 を設け、鈴木さんの支給量を月32時間に激減させる処分を行った。 その後も同様の処分が繰り返され、鈴木さんは、平成17年8月に、月32時間の処分の取消し及び月124時間とする処分の義務付け、要綱の違法確認注3 を求めて、東京地裁に行政訴訟を提起した。
 その後、1年3ヶ月に及ぶ審理が行われたものの、平成18年3月末日に支援費制度注4が廃止 されたことにより訴えの利益が失われたとして、裁判所は鈴木さんの訴えを却下する判決を下した。しかし、判決理由の中で、支援費制度の下で行われた鈴木さんに対する支給量を月32時間とした処分は「違法である」と明言した。

 現在、障害者と行政・司法とはどのような関係にあるのか。現行の行政訴訟制度が抱える問題点は何か。この判決が、今後の障害者福祉行政にどのような影響を及ぼすのか。そして、今後、障害者福祉制度の中で法曹はどのような役割を果たすべきか。
鈴木訴訟の原告側代理人である藤岡毅弁護士にお話を伺った。注5

 

2.-訴訟提起前-
◇障害者福祉における弁護士

 

――まず、この訴訟を受任された経緯について簡単にお話いただけますか。

藤岡:はじめに裁判ありきというわけではないので、最初は行政との交渉と、生活保護の他人介護注6という問題についての行政不服審査の依頼というのがきっかけです。
 鈴木さんに関して平成16年の4月の初めに、大きく2つのことがあったんですけれど、いずれも障害者の介護保障の問題でした。
 1つは、生活保護制度の中の家族外介護、他人介護という制度についてです。社会福祉サービス等を使ってもやはり介護が足りないという人の場合、生活保護の中の介護制度を使えるという制度があります。その申請を鈴木さんが3月にしたけれども、それは一切できませんという通知が平成16年の4月に来て、それに対する行政不服審査を依頼したいという趣旨が1つ。もう1つが、支援費制度という、身体障害者福祉法に基づく居宅内介護保障注7 についてでした。その制度の中で、外出のための介護というものを今まで月124時間認められていたものが4月1日からは急に32時間に削減されたという問題があって、それをめぐっての行政との交渉等が始まるので、その相談という趣旨で依頼がありました。
 そのきっかけ、なんで私にたどり着いたかというと、私以外にも何人かの弁護士に当たったんだけれども、なかなかうまく相談を受けてくれないという事情がまずありました。  鈴木敬治さんは大田区にお住まいの身体障害者の人で、光明養護学校という養護学校に昔通っていたんですけれども、その養護学校の先輩に当たる高山久子さんという脳性麻痺の方がいて、やはり大田区にお住まいです。その同じ大田区に住んでいて、養護学校時代の先輩である高山久子さんのところに、誰かこういうことができる弁護士はいないかという相談がありました。で、高山さんと、もう一人、鈴木さん高山さん両方を介護していたある女性がいて、その女性と高山さんから、高山久子さんの友人の1人でもあるし介護人でもある私に、鈴木さんがこうやって困っているんだけれどもどうだろうか、という話がきました。最初の言葉は、そういう障害者の問題ができるような弁護士を知らないだろうか、という言い方をされたんだけれども、まあ正直私がやるしかないかなあ、という思いで飛び込んでいった。そんな経緯になります。
 その交渉等をやったわけですけれども、他人介護の方は、私が行政不服審査の申し立てをした結果、行政の方は却下処分を取り消して、他人介護の自治体基準分を支給するという決定を出してきました。それは何も行政不服審査をやったという理由だけじゃなくて、市民運動等いろいろ抗議なり運動していったり、交渉を何度かやったり、そういう成果の中で、他人介護については勝ち取ったということですね。その後、市民運動の頑張りで、他人介護の厚生労働大臣基準分注8の支給決定まで勝ち取りました。
 残るは支援費の問題ですが、それについても行政交渉を繰り返して、平成16年の4月、5月、7月1日と、4月に1回、5月に2回、7月に1回、計4回私も大田区との交渉に参加しました。
 けれども、大田区の方の頑なな態度は変らなかった、ということがあります。
 その後、これは私は直接関与してないんですが、鈴木さんが大田区議会に自分の削減処分の原状回復をもとめる陳情を出したけれども、大田区議会は不採択、要するに却下したということがその年の12月初旬にありました。
 その他さまざまな抗議行動等を市民運動としてやっていったけれども、なかなか事態は打開しない。これは行政訴訟を起こすしかないだろうという鈴木さん自身の強い要望があって、準備期間を経て平成17年の8月30日に東京地裁に提訴したという流れになっています。

――訴訟を依頼されたときの感想、そのとき抱いた感情というのはどういったものでしたか。

藤岡:正直に言うと、良くぞ来てくれたというような感じはありました。私自身、今44歳なんですが、大学時代、19歳くらいから障害者の福祉とか人権の問題に取り組んできたんですね。だから、そういう経験が無いごく平均的な弁護士のところに依頼するよりは、やはり、私のように今でも障害者の介護人をやっているような弁護士にそういう相談や依頼をしに来てくれたというのは、なんというか、よく私にたどり着いてくれたなという思いがありました。
 ですから、自分の力の及ぶ限り、この件はやらせてもらいたいなと思うと同時に、これはその鈴木さん個人のプライベートな利益の問題ではなくて、日本全国、世界中の障害者の人権、権利にも及ぶと言って過言でないくらい公益的な、ある種の公的な権利を保障するための闘いになるだろうなと、その事件の内容を聞いて直感的に感じました。
 これはお金を度外視しても、私自身のある種のライフワークとして取り組まなくちゃいけない仕事じゃないだろうかと。そういうことを逆にやらしてもらえればうれしいなということを思いましたね。

――今のお話だと、最初に依頼を受けたのは2004年ですか?

藤岡:そうですね。平成16年だから2004年の4月ですね。

――2004年の4月に依頼を受けて2005年の8月に訴訟を提起されて、1年半くらいの交渉をされたということ?

藤岡:私自身が交渉の前面に立ったのは2004年の4月から7月までですが、鈴木さんと行政との間での交渉期間はそれくらいあったということですね。

       

――私達が勉強していく上で、福祉制度の裁判をあまり見る機会はないのですが、今回はまず交渉があって、訴訟を起こすのに1年半かかったという部分で、訴訟を実際に起こすまでのハードルというか、まず交渉という方法を選択されたというのはどういった理由があるんですか。

 

藤岡:こういう障害者の福祉の問題というのは、やはり行政と障害当事者と障害当事者を支援する(市民の)人との話し合いなり交渉でひとつひとつ問題が解決してきたし、そういう地道な活動によって権利が獲得されてきたという歴史があるんですね。
 で、障害者の地域での自立生活というのは、まあ、一般の人も多少聞くと思うんだけど、これは別に制度で保障されている訳でもないところを、昔、それこそ30年前、あるいはもっと前から、施設の中にいた重度障害者、家庭内に閉じ込められた重度障害者が、施設なり家庭から地域に飛び出していって、自分でアパートを探して暮らすという中で、地域の中で生きながら行政とひとつひとつ交渉して積み上げていって、ひとつひとつ制度を勝ち取っていって、という流れで現在があるんです。
 だから、障害福祉の問題で行政との間で問題が発生した場合には、まずそういう当事者及び市民運動と自治体との交渉の中で、ひとつひとつ権利に関して話し合いをしていくという流れが当然あるということだと思いますね。

 別の言い方をすると、一般的に弁護士が、障害者の福祉の権利の確立というところで歴史的に常に活躍してきたかというと、それは非常にまれなケースなんです。もちろんそういうことをやっている弁護士もいないわけではないけど、一般的に障害者が自分の権利を侵害されたとか、特に介護保障等、ある種政策との関連があるような場面において、弁護士に依頼しようという発想自体がまずない。
 逆に言うと弁護士がそういう場面でなかなか活躍できていなかったという現実があるんですね。だから、障害者の人とか市民の人が、そういう局面で弁護士が活躍できるだろうとはそこまで期待もしていないし、また信頼もしていないというのが現実なんです。
 市民運動をやる人の意識にも、そういう障害者の問題を全然理解もしていないで、ある種人権感覚もあまりない司法の人間に委ねてしまうことで、下手をすると余計問題が解決できなくなるとか、変な方向に行ってしまうんではないかという危惧が、率直にあると思います。
 ですから、その中で市民運動と弁護士が信頼関係を構築していく期間というものは、そう一朝一夕では行きません。私自身も、鈴木さんや、鈴木さんを支える人たちとの信頼関係を構築していく期間というのはやはり一定程度必要でした。そういう問題が起きたときに、弁護士のところにすぐ裁判を依頼します、と来るほど、まだ弁護士は信頼されていないということですね。

 

◇障害者と行政の力学

 

――訴訟を起こすまでに、1年半以上に渡った行政の側と交渉等を行ったということですが、そのとき行政側に対して感じたことは何かありますか。

藤岡:なんていうか、行政っていうのは自分たちが一旦決めて発表した政策を、市民に対して実行し通すというか、それ自体が自己目的化してしまうところがあるように思います。何のために、市民の幸せのために、というようなことは二の次になってしまう。一見、交渉のテーブルに着いているようだけれども、それが何時間話をしようとも、形だけ座っているだけで、市民の本当の心をつかもうとか、応えようという姿勢がやはり感じられないなと。
 それどころか、ある意味せっかく区の方で決めた、自分たちが良かれと思ったて決めた区の政策に従わない人間に対する不快感のようなものを露骨に持っているような感じを受けますね。たぶん法学を学んでいるような人であれば、そういう弱い人の権利について当然守られるべきだという意識があるんじゃないかと思います。けれども、現実の現場の行政の人たち、特に政策決定に関わるぐらいの人たちについては、一旦自治体として決めた政策をいかに貫徹するかということが初めにありきで、何のためにそれをやるのかという中身の方がおざなりになっているのかな、 という気がしましたね。

――行政側を相手に、訴訟を起こすことの難しさというのは、やはりありますか。

藤岡:今回のことで言うと、巧みなやり方として象徴的なのは、一旦まずは上限32時間ということで、一律にバンと削減しておくんですね。その上で、区長が特段の事情を認めた者に対してだけ特別に加算する制度注9 を作っておく。一方では、それが柔軟な制度なんだというような主張を、裁判所に対してもしているわけですけど、 その実践的な役割としては、一部の障害者団体の役員幹部だけに、特権的に介護支給料を加算することによって、 そういう障害者団体を束ねている人たちからは行政が文句を言われないようにうまくコントロールしているということがあります。
 障害者の人たちというのはかなり狭いコミュニティに生きている現実がありますので、 そういう狭い社会で、障害者のコミュニティを束ねているような人たちから言われると、なかなかそれと違う意見はいい辛い。要するに行政に対してあまり強く権利主張をするということは、 その空気の中でできなくなってしまうということがあります。そこらへん行政の巧みな、悪く言えば狡猾なやり方によって、弱い人の声が封じ込められている現実というのは感じますね。

――そういった状況の中で、鈴木さんが裁判を起こされたわけですけど、行政の側からすれば自分たちが給付をしている中で、ある意味行政に歯向かうというニュアンスに捕えられることもあるように思います。行政と鈴木さんの関係の中で、裁判を起こすことによって何か変わったというか、行政から鈴木さんに対する働きかけというのは何かありましたか。

藤岡:行政とのかかわりというのは、社会の中で生きていけば様々な点であるわけですから、行政施策を通して、こちらからいえば嫌がらせとしか思えないような、様々な不利益なことをやってきたということはありますね。

――具体的に伺うことは可能ですか。

藤岡:1つは生活保護についてです。鈴木さんは生活保護を受けているわけですが、 生活保護制度の中に、「敷金交付の生活扶助 」注10というものがあります。生活保護世帯に対する最近の厳しい流れともリンクしているんだけれども、 今回の裁判を起こした直後に、3年位前に鈴木さんが引っ越したときの敷金を、 鈴木さんが行政を騙して交付させたということで、そのお金、30万くらいを即座に返還しろという処分を今年の1月に下してきました。それは今でも行政不服審査で東京都庁のほうで争っている事案なんですけど、 それは我々からすると、やはり行政に対して歯向かってきた人間に対し、 何が何でも懲らしめたいという意思の表れ、 行政庁がもっている権力の濫用ではないかと。こんなことは絶対に認められないということで争っています。
 もう一つは、 例えば、共生共走マラソンですね。この判決の中にも再三出てくる、障害者の人と健常者の人が一緒に5時間マラソンすることで、 ともに生きる社会を作ろうという社会運動を鈴木さんはやっているわけなんですが、その活動は社会的に意義があるということで大田区は後援してきたわけです。裁判の時期のころまで連続9年後援してきたわけですけれども、今回裁判を起こしたときに、第10回の後援については後援しない、要するに後援打ち切りという連絡をしてきたんですね。それはなぜかということを問い質しに鈴木さんが大田区役所を訪ねたところ、 いろいろな話の中で、「やはり裁判も起きていますからね」という言葉があったと。ということは、やはり明らかに裁判に対する報復の意図をもって、 そういうことをやっている部分があると思うんですよ。
 鈴木さんは意志の強い人だから、 それでたじろぐことはないけれども、共生共走マラソンは実際何千人もの人が関わる社会運動だから、その記念すべき10回大会で後援の打ち切りが、自分が社会保障裁判を起こしているということを理由に後援が打ち切られるというショックな出来事があったとして、 もし気の弱い人だったら、じゃあ自分が裁判さえ取り下げればこの第10回大会での地元の自治体の後援が復活するのかと、 裁判をあきらめて取り下げるということも十分ありえたと思うんですよ。今回は、鈴木さんの周りの人も、そこまですることはないだろうと鈴木さんを支え続けたから、 裁判を続けられたわけだけれども、そういう形でいろいろな手法を使って、たった一人の重度障害者を追い込んでいくという行政のやり方というのは本当に、 一般の方にはなかなか想像がつかないんじゃないかなという気がします。
 あるいは、障害者の日の集いというのが10月にあったんですけども、これは大田区の障害者であれば全員参加できる大会なんですね。けれども、 鈴木さんは裁判起こしているとか自分の主張を広場でするんじゃないかという疑いを持たれて、会場に出入りすることはできずに、10人以上の職員が鈴木さんの回りでピケを張って導入を阻止するような露骨な行動がありました。

 その他、 この2年位そんなようなことが、本当にある種日常茶飯事的に、いちいち記録する気にもならないくらい年がら年中起きているんですよ。だから、 それらの報復行動に対して裁判しようと思えば起こせることが他にもいろいろあるんです。
 例えば、 本庁舎の障害福祉課に鈴木さんたちが要望に現れると課長から率先して、ビデオを取り出して撮影して、障害福祉課長自ら「あなたたちの行動は違法だから直ちに退去しなさい。」と大声で言うわけです。市民を追い返すためにビデオ撮影するというようなことがあって、 公権力によるプライバシー侵害の疑いが強いですけれども、それらを1つ1つ裁判にしていても切りがないようなところがあるので、それぞれの問題も大きいんだけど、 まずは支援費の問題を中心にやりましょうよということなんです。
 たくさんの人権侵害の中で、実際に本当に裁判を起こすためには、やはりどこかに戦力を絞り込まなきゃいけない。メインのところで戦い抜くということをやっているにすぎないということです。
 行政権力を握った側の、まあ、驕りというか、そういうことで、本当に様々な形で総力を挙げて叩き潰しに来るという印象があって、それを一般市民の人とか障害者の人の多くはそれを肌で感じているんですね。ある意味、 それは裁判を起こす以上予期されることだよ、という感覚もあると思うんです。だからこそ、行政に対して何か物を言うことは、なかなか難しいと思うんですね。
 実際上鈴木さんも、「月32時間への削減に応じなければ、明日からは支援費は一切停止するぞ。」とまでいわれているわけですよ。福祉に関して何かしら自治体と関係のある人が、あることを強く行政に言った場合に、Aという施策について文句を言ったらBという施策で不利益を受けるかも知れないという心配をするわけです。そうすると、 なかなかいいたいことがあっても強くはいえない。お願いベースでいうことはできても、権利を主張するというようなスタンスで行政に立ち向かうことは、ほとんどの障害者の人はとてもできない現実があると思います。

――そういった裁判を起こしにくい状況がある中で、鈴木さんが裁判を起こしたわけですけれども、今回の要綱というのは、鈴木さん個人だけではなく大田区の移動介護を受けている障害者全員に適用されるものということで、鈴木さん個人の権利の救済というのももちろん訴訟の目的であると思いますけど、それ以外にこの訴訟に持たせたかった意味というのはありますか。

藤岡:鈴木さん自身、自分が助かりたいなんていうことはある種二の次であって、1つの要綱というものが大田区内すべての障害者の権利に直結する問題であるから、要綱というもの自体を問題にして、その違法性・不当性を問い、それを撤回させていくことによって、その要綱によって苦しんでいるすべての障害者の人の立場を擁護するためにやってきたということです。それは、実例でいうと、この判決の中にも出てくると思うんだけれども、特権的な加算ということで、鈴木さんに支援費を支給しようかという誘いかけというのが何度もあったんですね。つまり、鈴木さんが共生共走マラソンという団体の役員をやっているという名目で、団体役員加算をしてやろうかという誘いが何度もありました。けれども、鈴木さんは「そうではない、自分ひとりが特権的に救済されるなんてことは断じてあってはならない。」と言ってそれは断ったわけです。誰でも公平に支援費というのは支給されるべき、必要な支給量が必要な人に支給されるべき制度であって、大田区なり行政に好意的なことをやっている特定の人間が特権を付与されるという制度ではないんだということで争っていたわけなんですよ。
 だから、あくまで自分だけが助かろうという思いでやっていないという鈴木さんの姿勢は、判決からも読み取れるんだろうなと思います。

 

◇裁判所のバリアフリー

 

――訴訟に入るまでの段階はこのくらいで、次に訴訟に入った段階の話を伺いたいと思います。鈴木さんは車椅子を使われていると思うんですが、裁判所の設備はどうなっているのでしょうか。

藤岡:東京地方裁判所の行政訴訟部が、今は民事第2部、第3部、第38部と3つあるんですが、民事第38部に係属したということで、その第38部の裁判官に、車椅子の人の傍聴が多く予想されるので、車椅子のまま傍聴できるような法廷を用意してほしいという申し入れをしました。裁判所から、どれくらい人数が予想されるのかという問いかけがあったので、場合によっては10台以上の車椅子の人が傍聴すると伝えたところ、 東京地裁の法廷は座席が固定式になっているので、 10人以上の車椅子が入れる法廷は708号法廷1つしかないと言われました。ただ、 そこは別の民事部が使っていて、 民事第38部では使えないという話だったので、それはなんとしても使えるようにしてよと交渉した結果、 当時の菅野裁判長のご尽力で、 鈴木訴訟に関してその708号法廷が使えるようになりました。その辺は裁判長に感謝しています。
 ただ、そもそも翻って、東京地裁のバリアフリー全体を考えてみると、100以上ある法廷の中で車椅子の人が入れる法廷が1つしかないというのは、バリアフリー社会からおよそかけ離れた実態であると思います。裁判というのは何も行政裁判に限らず、刑事にしろ民事にしろ沢山あるわけですから。座席全部を固定式にしないで、半分くらいは移動式にしてスペースができるようにするというのは、やる気があれば、 それこそ1ヶ月もあれば本来できる話なわけですよね。バリアフリー面で遅れがあるというのは、裁判所の障害者の人権に対する意識がかなり遅れていることが、 はっきり示されているなという気がしています。
 そういうハード面の問題から、障害者の人がなかなか裁判所へのアクセスをしにくいということがあると思いますし、裁判の中身としても、障害者の人の話が裁判で受け入れられにくいから、裁判をなかなか起こしにくい。だから実際に裁判所に行く障害者の人も少ないと、ある種の悪循環といえば悪循環なんだろうなと思いますね。

――裁判では、 原告側席に鈴木さんがいらっしゃって藤岡先生もいらっしゃる形になると思うんですけど、鈴木さんが外出する際介護する方っていうのは、裁判上どのように扱われるんですか。

藤岡:かなり社会的に注目される裁判で、 傍聴席に入りきらない可能性があるということで、第1回目だけ傍聴券が発行されたんですね。その際も、裁判所とは2つのことを交渉しました。
 1つは、 傍聴している障害者の人と介護人がいるわけだけれども、例えば40枚傍聴券が発行されたとして、車椅子の障害者が20人いてそれに対応する介助者が20人いた場合に、40とカウントするのではなくて、障害者と介助者の人合わせて1枚というカウントをするようにしてくれと申し入れをしたんですが、それは聞き入れられませんでした。
 ただ、もう1つ、原告本人の介助人に関しては、傍聴人としてカウントはしませんと、介助人は原告の手足だと考えて、 傍聴券無しでも原告席の横の方で待機していただくことを許しますということでした。ですので、裁判官は障害者に理解のある人だという趣旨のことを私は第1回口頭弁論のときに言っています。

――今少しお話に出た、 社会の関心が高かったというお話ですけど、その関心の高さを先生はどういう形でお感じになる機会がありましたか?あるいは、社会の関心を高める努力はされましたか。

藤岡:やっぱり、 運動の中で広く関心を集めるように様々な働きかけをしてきて、ようやく判決が出て、かなりこの問題も社会に認知され、事件もメジャーになってきたなぁというのが現実ですね。提訴当時は確かに、 NHKが首都圏ニュースという形で出してくれたり、 各社の新聞報道があったりしました。けれども、じゃあそれほどこの運動が地元の大田区で認知されていたかというと、それはまだまだマイナーだったと思います。ですので、裁判を起こした当時は、なんとか社会的にこの問題の重要性がわかって欲しいなあというのを一生懸命アピールしながら、というのが現実だったと思います。
 鈴木さんみたいに行政にものを言う障害者というのは、周りからすれば、そんな盾突くなよという雰囲気で、そんなことやって俺たち他の障害者まで行政から変なふうにやられたら困るじゃないか、というような空気がやっぱりどこかにあるんですね。そういう空気を何とか断ち切って、鈴木さんは、自分ひとりが助かりたいがために、個人的利益のため戦っているんじゃなくって、一見関係ないように見える他の障害者のことも含めて全体の向上ということを考えてやっているんだよという、その本意をわかってもらいたいと。そのために、この問題を広く皆さんにわかってもらいたい、障害者の人のみならず、一般に障害者問題とかおよそ関心のない一般区民の人にも、そういうこの事件の本質をわかってもらいたいということで、様々な活動をしてきました。
 ですから、通常の弁護士業務とかなり違うのは、そういった問題を広く社会に知ってもらうための業務、一般的に言えば記者レクチャーとか、そういう様々な働きかけをしたんですが、そういうこともかなりの仕事にはなりましたね。

 

◇訴訟からわかる障害者福祉の実情

 

――裁判所の中で実際に行政側とやり取りされたと思うのですが、藤岡先生が訴えを提起される前、交渉段階での行政の言い分と、裁判所で行政とやり取りする中での行政側の言い分というのは一貫して頑なな態度だったんでしょうか。

藤岡:頑なな態度という意味では一貫していますね。

――交渉段階と裁判段階とで、何か違った部分というのはありますか。

藤岡:法律について一般市民の人の理解が不十分ということを、まあ、ある種利用して、自分たち行政の決めたことを押し付けているということが裁判前にはあるわけですよね。この件で言えば、 区議会なり行政交渉の場では「要綱で決めました」「要綱で決めたことだから、 それは市民の人は従う義務があるんです」という論調なんですよ。実際そんなようなニュアンスで、区議会議員等に対しても福祉部・役所の方は説明をしているんです。
 で、 それに対して、この問題については交渉の当初から藤岡という弁護士がついているので、こちらとしては「要綱というのは法的に市民を拘束するものではないんだ」という主張をずっと一貫して続けてきたわけです。ところが、 例えば区議会議員等は、そういう弁護士の主張とか鈴木さん側の主張というものに対して、 かなり露骨な反感・嫌悪感を議会の答弁等でも明らかにしているんですね。例えば、「行政の、 仮にも役所の助役が作った要綱を、 法的な拘束力のない単なる内部基準なんだというようなことを言うとは何たることだ!けしからん!」ということをかなり強く批判していました。で、実際市民の人も、 私が「要綱は区民を法的に拘束するものじゃないんですよ」って言っても、私の説明を真に受けて信じている人はあんまりいなかったんですよ。
 ところが、裁判が始まって第一回の答弁になった途端、大田区側は「要綱というのは区民等の権利義務関係にはなんらかかわりのないことだ」という答弁を言ってくるわけですね。
 裁判官向けの主張と、裁判以前の一般市民に対する、あるいは議会に対する言い方とガラッとダブルスタンダードの説明をしてきて、そこらへんの使い分けというのは非常に巧みなわけです。
 だから裁判が始まってようやく、 ああ藤岡の言っていたことって正しかったんだなっていうのがわかり始めて、裁判を傍聴してきたような市民の人たちは、ああ法律とか規則ってそういうものなのかなということを徐々に学び始めているというところでしょう。けれども、 区役所側はそういうところはある種の確信犯として、本当はわかっていながら、 規則とか要綱とか通達とかというものには法的効力あるから、一般市民区民は従わなければいけないんだという形で物事を進めていくという現実があるわけですね。

――裁判において、 特徴的だった行政側の対応というのは何かありましたか?

藤岡:平成18年1月20日に第2回口頭弁論があったわけですけども、その際に、被告側から本件行政処分の根拠となった調査結果注11 が証拠として出てきました。
 いくつか出てきたわけですけれども、本件処分直前の平成16年3月29日に、原告鈴木さんの自宅で、被告大田区の職員によって行われた調査の結果という、 一番重要な証拠が出てきたわけです。それは乙20号証だったんですが、 それ以外の多数の証拠は全部原本で出てきたわけですけれども、 乙20号証だけなぜかコピーだったんですね。
 ですから、 私は口頭弁論の際、即座に「なぜこの一つだけこの一番重要なはずな行政文書が原本ではないのか説明してください」ということを言いました。
 そうしたところ被告代理人は「手違いで原本を誤って廃棄してしまいました」と答えたんですね。
 で、私は「これは大変重要な点ですよ、いつそれがわかったのですか」と聞きました。
それに対して、被告代理人は「この訴訟が始まって資料を準備しているときにこの原本がミスで廃棄されたことが判明しました」ということを言ったわけです。
 で、これについて、その場で私は「極めて不審な話である」という指摘をしました。なぜならば、この平成16年の3月末の本件処分について、当初から弁護士がついて、問題であるということを様々な文書を含めて指摘をしてきたわけですし、行政不服審査の申し立てもしているわけですから、 その処分の一番直近の調査票、 調査報告の文書がなくなると紛失するということはありえないはずなんですよ。
 それと中身については、 本件は、移動介護の124時間を32時間に削減した、その移動介護の削減というものが正当化されるのかということが問題になっていたわけですから、 じゃあ124時間に該当する鈴木さんの外出の必要性が事実としてあるのかということが、 審理の対象として非常に重要になるわけですね。
 ところが、乙20号証の調査結果の外出調査欄には、「32時間」と一言だけ書いてあって、その活動内容っていうのは真っ白。でも、厳密に言うと真っ白じゃなくって、 黒いぽつぽつがいくつもしみのようについているというものだったんですね。
 私は、 「これは作為的になされたものである」という指摘をして、これの原本を必ず探して至急出しなさいということと、 それ以外、 この3月29日以前に、 3月2日にも同じように原告宅で被告職員による調査があったので、その調査結果票も出しなさいということを迫りました。
 その3月2日の調査結果はなぜ大切かっていうのは、その3月29日付の乙20号証の一番左上に、「3月2日と同一」っていう表現があったんですね。ですから、 3月29日の調査結果票(乙20号証)っていうのは3月2日と同一であるはずなんですよ。であれば、 3月2日の調査結果票を出してもらえれば、自ずと3月29日付の乙20号証の外出欄がどう書いてあったかわかるはずなんですよね。
 で、こちら側の要求に対して、裁判長がこちら側の指摘に賛同して、訴訟指揮として「乙20号証はなぜ写ししかないのか、その理由を答えなさい」ということと、 「3月2日付の調査結果票その他原告側が指摘する調査の書類を全て至急出しなさい」という強い訴訟指揮がありました。
 その結果、 その次の第3回口頭弁論が開かれた平成18年3月24日よりも随分前の、2月21日になって被告側は証拠を出してきました。そこでは、 「やはり3月29日付の乙20号証の原本はやはり見つからない、 捨ててしまった」という主張をしながらも、3月2日の調査票は出さざるを得なくて出してきたんですね。
 で、 3月2日の調査票というのは、本来3月29日の調査票(乙20号証)とほぼ同じであるはずなんですけれど、 その3月2日の調査票の外出支援欄には「必要外出時間は月129時間57分」というふうに認定されていて、のみならず鈴木さんの外出における活動内容が詳細に書かれていました。その書いてあるという部分というのは、 3月29日付の乙20号証の、先ほど言った空白のところに黒いしみのような点々がついていたというところと、かなりダブっていたということがありました。
 実はこの原本というのは鉛筆書きなんですね。3月29日付の外出支援欄にあった詳細な外出についての活動内容を消しゴムで消して、 それをコピー機でコピーをして、3月29日付のものとして証拠に出してきたということは十分推認されるであろうということです。
 で、その後に証人尋問があったわけですけれども、 その3月29日付けの調査票(乙20号証)を作成した佐藤さんというケースワーカーから話を聞いた大須賀さんという、3月2日の調査を担当した被告大田区の職員である証人から「3月29日付の調査票(乙20号証)をケースワーカーの佐藤さんは書いたり消したり書いたりしていました」という証言を引き出したんですね。そして、私の「じゃあ3月29日付け調査票(乙20号証)の外出支援欄というのは、 本件第一処分を下した時点では129時間あるいは124時間の外出内容が書いてあったんですね」という質問に対して、 大須賀さんは「そうだと思います」と認めています。これは、処分が終わった後にその129時間の外出支援欄を消したことを認めたのと、 ほぼ同視できると言えると思います。
 いまの部分を正確に言うと、平成18年9月8日の大須賀弘証人尋問調書の21ページにこう書いてあると。
 私がこう質問しました。「本件第一処分時点では書いては消しの書いてということで、(乙20号証には)3月2日付のものをそのまま転記した内容がかいてあったんですよね。」と質問しました。それに対して大須賀証人は「そうです。たぶんそうだと思います。」と答えて、私が「たぶんそうですよね」と質問したのに対して「はい」と答えています。
 つまり本件第一処分の時点では、乙20号証には3月2日付のもの、つまり先ほど言った129時間外出が必要であるという内容及びその鈴木さんの具体的な外出内容というものをそのまま転記した内容が書いてあったということを、 被告側の証人自身が認めている。そのことが被告側の証言でも明らかになった、ということになります。

――第6回口頭弁論の中で、被告側の証人2人の尋問と、鈴木さんの本人尋問が行われました。本件で問題となる要綱を作った岩田課長の証人尋問の中で、藤岡先生は岩田課長とやり取りされていますよね。

藤岡:ええ。

       

――その証人尋問あるいは訴訟全体からわかる大田区側の感覚、行政側が障害者に対してどういう感覚で接して、どういう政策を作っているのかということについて、 藤岡先生はどうお感じになりましたか?

藤岡:これはなんていうかね…、 ひどすぎるっていうかなんて表現していいのかっていう、もうねえ(苦笑)。どう言っていいのかって感じなんですよね。
 典型的なのは視覚障害者の点字教室ですよね。議会答弁で、移動介護要綱注12 についての質疑が行われていて、議員の方から「視覚障害者の人が、点字教室・パソコン教室に通うものというものは社会生活上必要不可欠注13 な外出ではないか」という質問があったんですね。これに対して、 岩田障害福祉課長は「こういった習い事というものにつきましては私どものほうでは余暇活動と社会参加活動の一環注14 ということで考えております」というふうに答弁しているんですね。
 つまり、視覚障害者の人が点字教室で点字を学ぶという、基本的なコミュニケーションの手段を回復する、もう端的に言えば必要不可欠と誰でも考えているはず、少なくとも社会福祉について少しでも理解のある人であればそんなもん必要不可欠に決まっているとしか断言せざるを得ないものについても、「それは余暇にすぎないんだ」「決して必要不可欠なんかではないんだ」ということをいけしゃあしゃあと答弁していると。しかも、その答弁をしているのが、本庁の障害福祉課長という障害者福祉を一番わかっていなければならない政策推進の人物であるということなんですね。
 そういう無理解をもとに、本当に必要な、誰が考えても必要不可欠な外出を制限していくという、何かもう絶望的とも言えるべき人権感覚をもとに政策を推進していくという現実、その障害福祉のもっとも大切な基本理念というものが全くわかっていないで、わかっていないことを恥じ入ることもなく、もう堂々とそれを正当なものだと言って強引に政策遂行していくという姿を見ると、 もう本当に言葉が出ないような思いです。
 ちょっと話は飛ぶけれども、 いま憲法理論なんかで、非常にこう価値相対主義的な憲法観というのがすごく強まっているように思います。例えば大阪大学の松井茂記さん。私もたいへん尊敬している学者さんですが、 この人なんかの憲法観というのも、結局のところ突き詰めると多数決民主主義というものをすごく信頼しているんですよ。
 多数決民主主義的なものをまず基礎として、 基本的に社会政策っていうのは多数決によって決まるべきであって、司法とかが活躍するのはその本当にちっちゃなところで、 基本は多数決で決まるべきところには司法は口を出すべきでないっていう言い方をしているんですね。一見すごく正しそうなんだけれどもだけど、いま地方分権、ありとあらゆる権力が地方に握られて、障害者の人なんかの生活が自治体の権限によって非常に大きく支配左右されている現実がある。ところが多数決民主主義のその議会というのが、 そういう人権感覚あるいは福祉が暴走したものに対してそれを抑制しようという機能を失っている現実があるわけですよ。
 最近の報道でもよくでますが、 都道府県議会などもいかに知事を立てて守るかというようになっていて、それは市町村議会でもほとんどみんなそうなわけだから、 議員はいかに市長なり区長を守って行政庁が支障なく政策を推進できるかを考えるという仲良し機関になって、チェック機能が形骸化しているという批判が多いわけです。そもそも構造的に票にならないマイノリティの人権が侵害された場合、それを多数決民主主義で統制することに無理があるし、 なかなか機能しない現実もあるわけです。
 そういう構造なり現実を踏まえた場合に、多数決民主主義を前提とする人権観、憲法観っていうものが現実的にどうなのかという疑問はあります。
 逆に普遍的な人権価値というもので、 多数決原理で侵されたものこそ司法がしっかりと制御していかなきゃならないわけだから、そこは多数決民主主義で踏みにじられようが、 というか踏みにじられたからこそ積極的に司法が介入していって救済していかなかったら、何のための司法なのっていうのはあります。憲法学者と障害者福祉を議論しても、やっぱり頭から、 社会福祉のことは行政政策にゆだねるものでしょうから、まずは行政判断があるから、 原則として司法審査は及ばないですよねっていう感覚で、全然議論がかみ合わないときはあります。
 それは実態を知らないというか、 議会が本当にそういう少数者の権利までしっかりと見据えてくれるような実態があればいいけども、現実そうとも言えないですし。具体的現実の中での憲法理論みたいなものを考えて欲しいなと。ちょっと脱線したけれど、このHP見る方の多くは法律学の意識を持ってらっしゃるだろうから。現実を踏まえた理論を理解してもらいたいなという思いをつい偉そうに言ってしまいました。

――訴訟の部分の最後のまとめとして、1年以上に渡って、6回の口頭弁論をやられた感想をお願いします。

藤岡:色々ありますけどね。第1回口頭弁論から判決まで1年2、3ヶ月ということで、一般的に、行政訴訟の中では短いほうだったとは思います。けれども、今回の流れの中で、 行政訴訟で行政処分の違法が争われているわけだから、本来、行政庁は自らが下した処分の正当理由ってものを積極的に説明できなきゃいけないわけですよね。
 で、 実際上私は本件処分の直後から、その処分理由を出しなさいということを言い続けてきて、処分違法事由も、 弁護士としてかなり前から指摘しているわけです。そうである以上、裁判が始まって、こちらが訴状で処分の違法事由を指摘したからには、 第1回口頭弁論で少なくともその正当理由、行政処分の合法性の理由っていうのは説明できなきゃいけないはずなんですよね。ところが第1回口頭弁論の答弁のときは、もう本当に形だけの答弁しかなくて、中身についてのまともな答弁はなかったわけです。
 第2回の口頭弁論というのも、 第1回口頭弁論において、私のほうでは「少なくとも第2回のときまでにしっかりと処分の合法性について理由をちゃんと説明しなさいよ」といっていたわけですけども、 第2回の口頭弁論のときまでに出てきた内容っていうのも大した内容はなかったわけです。で、第2回口頭弁論のときに向こうが出してきた準備書面に対する反論を、私が平成18年3月24日付の原告準備書面でしまして、結論的にいっても、 ほぼこれで双方の主張の応酬っていうのは尽きているんですよね。
 ところが、 裁判所の裁判官の人的構成が第1回から4回まで毎回変わったりしたということもあって、その従前の経緯を裁判長に私の方で縷々説明しなきゃいけないもどかしさがあったり、 実際上ほとんど主張が尽きているはずであるにもかかわらず、第4回以降も、被告側に対して「もっとちゃんと書きなさいよ」という、 私から言えば無駄なような訴訟指揮があったりした結果、 判決まで1年ちょっとかかってしまったと。本来なら、 平成17年年末に主張の応酬は終わって、 それこそ18年の1月ぐらいに証人尋問を終えて3月末までに判決が下ってもおかしくはない事案なんですよ。
 今回は平成18年4月1日に身体障害者福祉法の中の支援費制度の条文が削除されたという理由で訴え却下になってしまったけれども、まあごく普通に行政訴訟というものの構造がわかっている裁判官が、ちゃんとした訴訟指揮をやっていとしたら、もう18年の3月末、身体障害者福祉法の支援費制度がまだ存続している時点で十分判決は下ったはずなんだから、そうだったらああいう却下判決はなかっただろうという思いは正直あります。
 だから僕の提言としては、それこそ行政処分の違法について問題となっている行政事件であったら、少なくとも第1回口頭弁論の時点で、 基本的な行政処分の合法性の理由付けというのは行政庁がちゃんと主張できなきゃいけないという決まりを行政訴訟の中で作るべきじゃないかなと。それを延々と、自分が下したはずの行政処分の正当性さえ裁判で何ヶ月あってもなかなか説明できないってこと自体が、 ものすごくその行政処分の違法性を推定させると言ってもいいはずだと思います。
 しかも、いきなり裁判を起こしたという話だったら、まあ時間がなかったよという言い訳はあるかもしれないけど、今回の件は、裁判起きるまでに1年半もあったわけですよ。その間、弁護士から4回も行政不服審査申立が行われていて、 行政不服審査の申立書と今回の訴状なんてほとんど変わらないぐらい、 行政不服審査のときから違法事由はこちらから散々主張していたにもかかわらず、 向こうは答弁書一つ出してこないで無視し続けていたわけですから。1年半何一つ答弁してこなかったわけだから、その間の空白期間というのは行政側、何もしないほうの責任なわけで、だったら少なくとも裁判が起きて第1回口頭弁論の時点で基本的な主張というのは終わる義務が僕はあると思うんですよね。そうだとしたら、この件なんか1年もかけなくても十分、 まあ半年あれば終わったはずなんです。
 それは鈴木訴訟だけに言えることじゃなくって、 他の行政訴訟でも絶対同じこと、一般的な規範として当てはまると思うので、行政処分を下した側の理由付け・正当化主張責任の時期的制限みたいなのは、僕は絶対作るべきだというのを今回すごく感じましたね。

 

◇判決の意義-今後の障害者福祉に与える影響-

――判決についてですが,判決の主文は、4月に自立支援法が施行されて訴えの利益がなくなったということで、却下になりました。けれども、裁判所が、処分は違法だということを理由中で明言しました。そして、判決理由の最後に、自立支援法下においても、自立支援法の趣旨に則った取り扱いをするように、ということも付け加えられました。この判決に対する藤岡先生の感想と、この判決の意義がどのようなものになりそうか、ということをお話いただけますか。

藤岡:そうですね。まあ、私が直後に記者会見したのに対して、ある報道では、「無念さが出ていた」というような表現があったけれども、やっぱり率直なところ勝訴じゃないというのは、多分、鈴木さん本人と私が一番その無念な思いというのを抱いているだろうな、ということはあります。やはり行政訴訟として、違法な行政処分は断固として取り消して、権利が侵害された人を救済するという使命を果たすべきだった、ということは第一に言わざるを得ないですね。
 他方、確かに、本来却下であれば中身について触れる必要もないという論理もある中で、中身である処分の違法と、要綱との関係について踏み込んだ判断をして、自立支援法にまで言及して、その後の行政庁の対応についてかなり釘を刺すということを表明してくれたということは、まあ評価には値するだろうな、と思います。
 あとは、障害者の介護支給量の支給決定における原則的な判断として、その個々人の事情に合わせた支給という原則を確認してくれたというあたりは、今後の障害者の介護保障をめぐる様々な局面での1つの基本テーゼ、基本判例として実践的に活用しうるということで、そこはかなり大きな成果、意義があったといえます。

――この判決の翌日の新聞報道であるとか、当日のNHKニュースで取りあげられましたが、そのマスコミの報道というのは、ほぼ一貫して「処分は違法」という点が強調されていたように思います。そのマスコミの報道が、実際に社会に問題を喚起するとか、マスコミ報道が判決をどう伝えるかによって、影響があるという部分はやはりありますか。

藤岡:それは大きいと思います。判決、法律の話っていうのはなかなか一般の人にはわかりにくいので、マスコミがどういう風に論じてくれるかということで、その印象っていうのはかなり変わってくるとは思いますね。今回は、かなりのマスコミの報道がこの判決の正しい理解をしてくれて、基本的にいうと、鈴木さん側の主張が正しかったことが証明された、というような中身の報道になっていたと思います。そういう報道によって、「鈴木さんの主張、行政側の言っていることが間違っているなんていう主張はなかなか通らないんじゃないの」というような周りの見方を払拭できて、鈴木さんのある種の名誉回復にもなったし、そこら辺は報道の役割というのは大きいなあと思います。

――鈴木さんが判決の後に、大田区で実際に生活されて、色々な方と関わる中で、この判決が話題になったりとか、鈴木さんに対する対応が変わったりとかする部分はありますか。

藤岡:やっぱり、ビラまきをしているときにビラを取ってくれる人も増えたし、受け取ってくれるときの反応が、「あ~、あのテレビや新聞で見たあの件よね、頑張って」というような、明らかに好意的なものに変わっているという、その空気の変わり方というのは大きいと思いますね。それと、身近にいたような人で、この件をわかっているようでわかっていなかった人が、「ああ、こういうことで争っていたのね」っていうのをようやくこの報道で知った、そういう人が大勢いるという印象はあります。

――そういった社会的な影響の中で、今回の判決は支援費制度における大田区の要綱について問題になったんですけれども、障害者自立支援法をめぐる全国の現状とそれに関するこの判決の意義というものについて、お話を頂けますか。

藤岡:そうですね。平成18年4月から自立支援法という法律に変わって、特に10月1日から本当の意味での自立支援法が始まっているんですね。9月末までは暫定ということで、実質的には、自己負担のことを除いてはかなり支援費をそのまま維持しているというような形だったんですけれども、10月から、制度としても本格的に変更がありました。で、なぜかその10月1日を境に、今まで無かった支給量の上限、特に、移動介護の支給上限の要綱・要領というものを全国各地の自治体が作り始めているという実態がNHKの報道とか、まあ私自身の調査で明らかになった、あるいは障害者の介護保障について、色々調べているような団体の調査等で明らかになりつつあるんですね。
 ですから、今までも、もちろん大田区だけの問題ということでやっていたわけではないけれども、まさに丁度この判決が出る時期とリンクして、日本全国で移動介護の上限設定による介護料削減というものがかなり露骨に行われつつあるのが現状なんですね。そういうタイミングでこの判決とその報道がなされたということは、自治体なり障害者の人なり福祉関係者なり、かなり広く問題提起になっただろうし、それがいい影響を及ぼして欲しいな、と思います

 

――判決の意義とは逆に、この判決の持っている問題点や今後の課題についてお伺いします。今回却下になった理由は訴えの利益の部分なんですけれども、まず訴えの利益で却下されるということについて、藤岡先生はどうお考えでしょうか。

藤岡:まあこれは話すと長くなっちゃうけどね(苦笑い)。
 簡単に言ってしまうと、たまたま今回自立支援法の暫定施行が平成18年4月・本格施行が10月1日だったけど、仮に暫定施行も含めて10月1日からだったとしたら口頭弁論終結より後注15だった ということで、主文却下じゃなかったっていえるわけですよね。でも仮にそうだとしたって、判決言い渡しの時点ではもう法律は変わっちゃっているわけだから、負けた被告側が控訴すれば、控訴審では絶対被告勝利になっちゃいますよね。そういう意味では、やっぱりそもそもその前提に立つ理屈、つまり法律が変わったっていうことで訴えの利益が失われるという法律論理自体がおかしいと考えるのが、当たり前の市民感情だと思うんです。
 取消訴訟が何のためにあるのか、少なくとも、今までは義務付け判決なんてのはなかったんだから、義務付け命令が成立しない以上取消しの利益がないなんていう発想が従来はなかったんですよね。そうであれば、処分の名宛人である、原告適格を持つ原告がその処分の違法性を主張して、それが違法であることを確定できれば、裁判所はそういう違法行為に対する司法統制をするし、本来それが法の支配を守る裁判所の役割だと思います。だから少なくとも原告適格があって、違法な処分が行われていることを確定できる以上、まず何はともあれ取消判決は出すべきだと思うんですよ。もちろん行訴法9条括弧書きで、「法律上の利益」っていうのは書いてはあるけれども、それはいくらでも解釈のしようはある。例えば、役人の分限処分で実質上解雇になったけど、裁判をやっている途中で60歳定年がきました、といった場合に、職場に復帰できなくたって給与の利益が復活するっていうことで。金銭的な利益があればそれで訴えの利益は消滅しない、っていうのが最高裁の考え方じゃないですか。それと同じ事で、本件だって移動支援費が削減されたことによる金銭的な利益は残るわけなんだから、一切権利が復活しないから権利救済の可能性がなくて訴えの利益が無い、っていう論法は絶対におかしいと確信を持って思っているんです。
 
 だから、もし中身の違法性は確定するっていう形で訴訟要件だけで控訴審で争えるという法制度だとしたら、とことん最高裁まで戦ってその行政法理論がおかしいということは絶対やっていました。実際、この件は東大の行政法のある教授が見守って下さっていたんだけども、「この事件で原告が訴えの利益で負けることはない。法律改正云々はこの件に関してはあり得ない。」と断言して下さっていて、判決言い渡しの傍聴まで来てくださっていたけど、法律改正での訴えの利益喪失という判決には本当に驚かれていた。だから本事案を理解している行政法学者の感覚からいったって、本来これで訴えの利益が消滅するっていうはおかしいことなんです。それに、実際、自立支援法だって成立から2年後に見直しが規定されているわけだから、仮に自立支援法の裁判が平成19年4月から始まったらもう2年後には見直しじゃないですか。そうしたら、自立支援法自体だって2年後には変わっているかも知れないですよね。もしも第2次鈴木訴訟が自立支援法をめぐって闘われたとしても、向こうも第1次訴訟で実質負けたって思いがあるから、相当頑張って今回以上に絶対時間がかかって、多分、第2次訴訟の判決が下りる頃には自立支援法なんか無くなっていますよ。とすると、自立支援法も無くなっているから、また訴えの利益はないですよね。実際上、介護保険との統合っていうことを厚労省の方は相当考えているから、実質的な介護保障権とか移動介護保障請求権っていう権利自体は全く同一性を維持しながらも、3年位ごとに法律改正だけ行われていって、でもその度に訴えの利益が無いということになる。そうすると、福祉行政は司法統制が永遠に行われない治外法権社会になっちゃうわけじゃないですか。行政はごね得ですよね。裁判で仮に1審で負けたって、2審をやっている頃には法律改正するんだから、絶対に訴えの利益で勝てるんだもんね。福祉政策みたいに、特に頻繁に政策が変わるところでは、行政は何をやっても絶対負けないっていう理論に今なっているんです。だとしたら、そういう理論自体が絶対におかしいと私は思うんですよね。
 
 少なくとも、介護保障請求権みたいな権利自体が同一性を持っているのであれば、その根拠がどういう法律構成・準拠法に変わろうと、それは同じ権利が維持されているんだから、そこで訴えの利益が消滅させるというのは絶対におかしいと思います。
 だってこれじゃあ、仮に「生活保護法」が裁判の途中で「生存権保障法」っていう風に変わりましたといったら、それでもって旧法における生活保護の違法性ってのは誰も問えなくなるんですか、って。それと全くイコールじゃないですか。それどう思います、今の話。
 生活保護について、過去の違法な処分の取消訴訟を起こしていましたと。裁判の途中で生存権保障法に変わりましたと。生活保護法だって何年もやっているから、生存権保障法に変わる頃には多少は内容的な変更があるじゃないですか。でも、基本的にはナショナル・ミニマムの保護を保障するという意味では、実質的な権利は変わらないわけですよね。名称が生存権請求権であろうと、生活保護請求権であろうと、実質的な権利の内容は変わらないんであって、それを準拠法が変わる度に訴えの利益は失われるんですかと。
皆さんの感覚ではどうですか。失われると思いますか。

――法律の本質が同じである以上は、A法とB法が仮に名前が違っても、それはやはり同じ要件の下に同じ様に権利が制限されているので、訴えの利益は失われないと個人的には思います。

藤岡:何年かやっていれば絶対政策の欠陥とかがあるから、法律が変われば100%同じであることはあり得ないわけじゃないですか。法律が変われば、絶対色んな所が修正され改正され色々変わってくるわけで。時代状況によって法律は改正されるべきだし、変わっていくべきで、それは必ずしも悪いことではないわけだけど、だからといってじゃあ何でそれが訴えの利益の消滅に結びつくのか。
 誰がどう見ても全然違う制度に変わるならともかく、この件なんて支援費のみなし規定が自立支援法の中にあるくらいで、現場の実態は何も変わっていないわけです。まあ自己負担の問題という大きな問題はあるにしたって、基本的な介護保障制度という意味では変わらずに、実質的にその法律を引き継いでいるのはもう公知の事実なわけじゃないですか。だとしたら、なんでそれが法律の名称が変わったってことで訴えの利益を消滅させなきゃいけないの、っていうことが私には理解できないですよね。
 
 もう1つ理論的に言わせて欲しいのは、訴訟物の選択権って基本的に原告にあるわけじゃないですか。例えば、継続的不法行為を受けていた場合、隣人から私は2年間にわたってずっと権利侵害を受けていましたと、あるときは騒音被害で、あるときは悪臭被害で、あるときは布団叩かれましたとか。色んな継続的な不法行為がある中で、このとき僕はこんな侵害を受けていましたっていうのは、原告側が主張する話じゃないですか。
 ところが、今回の件っていうのは、今の話でいえば「いや、過去2年間不法行為を継続的に受けていたかも知れないけれども、お前今裁判やっている現在どうなのか。」というように、裁判所が勝手に、訴訟物変えなさいよって指示している話です。「私はこのときに苦しんだんです。」って言っているにもかかわらず、「いや、今はどうなのか。」って。民事訴訟でいうところの、過去の法律関係の確認はできない、現在の法律関係じゃなきゃダメだっていう発想ですよね。
 行政訴訟だって、裁判所としては、原告が権利侵害を受けたというその行政行為の違法性を審理して、それが違法だったのかどうかということを考えるべきだと僕は思うんですよ。それを勝手に、今現在の法律関係じゃなきゃいけないといって、訴訟物の選択を無理矢理ねじ曲げるというのは納得いかないところがあって。行政訴訟においても訴訟物の選択権というのは基本的に原告、権利侵害を受けたという人間の選択権に委ねるべきだと僕は思うんです。それを、過去のものを現在にしなきゃダメだと言うこと自体、その理論に私は納得がいかない。
 訴えの利益喪失論とか、過去の法律関係だからダメだとかいうあたりのところもすごく違和感があるし、そこら辺ちょっと行政法の教授なんかに問題提起して少しでも議論を変えていってもらいたいなという思いはもっています。

――今の訴えの利益とも関連するんですけれども、今度自立支援法になって、今まで支援費制度では自由選択主義だったのが、不服申立前置主義になって、裁判に行くまでに不服申立てを経ないと裁判にいけない仕組みになりました。そういう意味で、その訴えの利益論との関係でいっても、さらに審理・判決にたどり着くまで長期化するというわけですが、現在の行政不服審査の実態はどのようなもので、自立支援法に設けることで、どのような問題があるかということについてお話を頂けますか。

藤岡:行政不服審査でいえば、やっぱり、公正取引委員会くらいある程度実質的に独立性のある機関が判断してくれればいいけど、所詮お役所仲間達がやっていることで、その判断にどれだけ公平性とか客観性があるのかってことからいうと、まあ疑問に思わざるを得ません。
 仮に、審査会ってことをやったとしたって、処理能力がどうだこうだっていってホントに時間ばかりかかって、その実、行政の事務局サイドで作ったペーパーを追認しているに過ぎないというのが現実ですね。ですから、行政不服審査を前置しなきゃ裁判にたどり着けないというのは、やっぱり裁判を受ける権利というのを実質的に妨害している機能を果たしていると言わざるを得ないですよね。
 まあ異論はもちろん色々あるだろうけれども、私の感覚としては、そうだということです。


――今回の判決では、得に強調されなかったんですけど、オンブズマン制度を大田区は条例で設けていて、そのオンブズマンも今回の上限設定は好ましくないということを言っているわけですよね。そういった部分で、先程お話しいただいた不行政不服審査とオンブズマン制度で、どちらに実効性を持たせるべきかという点を伺いたいのですが。

藤岡:いや、どちらがとかいう選択的な発想をするべきではなく、色んな制度をその事案に応じて使い勝手を良くするべきだろうから、どれか排他的にとは思いません。ただ、オンブズマンについていうと、行政法理論の中で、自ら条例に基づいてちゃんと設置したオンブズマンの勧告に違反するような行政行為は、もう違法の推定が働いてもいいんじゃないかという気がしています。だから例えて言うと、Aさんという人に対しての部落差別がいけませんという勧告があったとして、でもそれはBさんに対しての勧告になっていないということでBさんに対する差別はオンブズマン勧告に違反していません、なんてそんな開き直りは許されるわけはないんですね。オンブズマン制度ってその1つの事例を通して、その後の行政施策全般が正しく運用されるようにという趣旨でHPでも公開されているわけですよ。個人のプライバシーは抹消された上で、一般的にこういう問題があって、それに対してこういう勧告があって、行政は是正勧告約束をこういう風にして、っていうのが通常公表されているわけです。そうだとしたら、この判決はオンブズマン勧告について「事案が異なる」という一言で切り捨てているけれども、本来はもう少し一般的な規範効力があるという理解をするべきだし、行政法学者の先生方にもこの辺をもっと理論構築してもらいたい。
 
 オンブズマン勧告の効力と行政行為の関係の法理論は今までもあまり無かったから、裁判所も議論に乗っかりようがなかったんじゃないかな、という気がしています。というのは、事案の整理の中では、意外にしっかりとオンブズマン勧告のことが書いてあって、私は読んでいてそのことに結構感激したんですよ。私がオンブズマン勧告を国賠の根拠として挙げたというのもあるにせよ、事案の整理の中に、前提事実はこうであるというので始まって、その上でこんなオンブズマン勧告があるというのは、判決の6ページでかなりの行数を割いて結構しっかり書いているんです。だから、実際上このオンブズマン勧告も、ある種ボディーブローのように効いていると思うんですよね。「サービスの上限があるとして制限するのではなくて、具体的に生活状況を把握した上で必要量を決定するべきだ。」という今回のオンブズマン勧告は、内容的には今回の判決とかなり合致している部分があるわけなんですよ。つまり、実際上このオンブズマン勧告の趣旨に沿ったような判決だったともいえなくもないわけです。だから、判決ではオンブズマン勧告を意外と意識している感じはあるけれども、かといってそれを直接法論理として用いるだけの理論の蓄積というのが従来の法律の世界でなかったから、なかなかそれを直接役立てるようなことをいえなかったんじゃないのかな、という思いがしています。そういう意味でオンブズマン制度についての法理論みたいなものはもっと掘り下げられるべきではないかな、という感じはしていますね。


――障害者の方とか、福祉の給付を受けている方というのは、行政との関係っていうのは私達よりも強くて、基本的に行政とは切っても切り離せない関係にいるわけですよね。そういった中で、今回、先程お話しがあったような共生共走マラソンの打ちきりとか、行政側から不利益な取り扱いを受ける可能性というのも、私達のように行政と一般的にあまり関わりのない人達と比べて高いように思うのですが。

藤岡:でも、共生共走マラソンなんて言ってみれば普通の市民運動なわけだから、障害者だからということでやっているわけでもない。もちろん障害者関係の話ではあるけれども、実は事務局の中でも障害者の人のほうが少数なわけで、本来はごく普通の市民としての活動なんですよ。例えば、今NPOの活動をやっているような人だって何かしら市・区との関係はあって、実は行政との繋がりって一般市民の人も結構意識していないながらもある。だから、行政は不利益及ぼそうと思えば権力を使って色々出来るような気がするんですよね。例えば子供が保育園に行く場合に、「保育に欠ける注16」という要件の判断だってかなり行政裁量に委ねられているじゃないですか。そうすると、子供を保育園にやっている人っていうのは結構神経質に月に何日奥さんは仕事に行っているのか、とか考えることがあります。そのようなことも考えると、必ずしも一般市民が行政と関係ないとも言えないような気もしますけど、でもまあ確かに相対的に障害者の関係者は行政との関わり合いが大きいというのはもちろんあると思います。


――それでは、その一般の人も含めて、一般私人側が行政を訴えるという関係のなかで、行政から何かしらの圧力を受ける可能性があるときに、藤岡先生はどう対応されたらいいと思われますか。

藤岡:例えば労働問題では「不当労働行為注17」という、申し立てをしたことによって不利益を課してはいけないという法理論があるわけです。これには法律の規定さえあるわけだから、同じように「不当行政行為」という概念で、行政の不服申立て等をした人に対して制裁なり不利益なことをしてはいけない、という法律を僕はぜひ作ってこういう人たちを守るべきじゃないかと。そうして行政が権力を濫用して行政に対する訴え自体を抑制するようなことが出来なくなれば、相当権利主張がしやすい環境になるんじゃないかな、というのが私の試論ではありますけどね。
 あとはやっぱり、これだけ弁護士の人数が増えていく時代なのだから、そういう一般市民、こういう言葉はあまり使いたくないけど、とりわけいわゆるマイノリティと言われたり社会的弱者と言われていたりするような人が苦しんでいるところに、弁護士が飛び込んで寄り添って闘う。どこまで効果があるかどうかは別として、そういう弁護士が付くか付かないかで行政の対応がある程度変わる現実があるにはあるんです。実際には権利擁護者がいないことで泣き寝入りしている人、あるいは平然と権利を踏みにじられている人はたくさんいて、一方で少なくとも最低限の防波堤的な役割を弁護士は果たせると思うから、そういうことは今後増えていく弁護士達の使命として積極的にやってほしいな、という思いはありますよね。

 

◇判決後の行政の対応

――今回の判決を受けて、行政側に実際にどのような影響がありましたか。まだ判決出てから半月位しか時間は経っていないので注18、実感はあまりないのかもしれませんが、運動をされている過程で、大田区が変わったとか、あるいは、変わっていないじゃないかとか、その辺の思いはどうですか。

藤岡:表立っては頑なな姿勢は変わっていないですよね。実際上政策も変わってないし、もし本当に判決を受けて何かしらの教訓なり反省なりを抱いているとしたら、いくらでもやりようはあると思うんですよ。例えば記者会見でも開いて、「この判決については真摯に受け止め・・・」みたいなコメントを出すとか、もっと言えば職権でいつでも支給決定っていうのは変えられるんだから、鈴木さんにした支給決定を変えることはいつでもできるはずなんです。だけどそれは変わってない注19
 ただ、今回鈴木さんと支援者が言っていることが正しかったということは司法で判断が下ったので、判決後の色々な市民運動、例えばスピーカーなりビラまきなりをやっているときに、行政側としては手出しがしづらくなっている感じはありますよね。今まではそういう市民運動を妨害して、なんとかこれを追い返そうというのをかなり露骨にやってきたのが、さすがに裁判所が認めた話ということで、むしろ行政側が隠れて逃げてくような場面があります。例えば、区庁舎前のビラまきをしているときに福祉の部署の連中が通りかかると、顔隠して逃げるような感じで通っていくわけです。やっぱりどっちに正義があってどっちが悪者だという構図が、判決とかマスコミでかなりはっきりしてきたんで、そういう意味で風向きが変わったという感じは受けていますよね。

――今回、国賠の方は棄却になってしまいましたが、負け方としてもやっぱり職務行為基準説で切られたという…。

藤岡:まああれはねえ、なんていうか理屈の問題ですけどね。理屈と膏薬はどこにでも貼れるという理屈のレベルであって、論理必然的に云々っていう問題じゃないような印象ですよね。

――逆にいうと、次また同じことやったら、今度は認められるということですよね。

藤岡:まあそれはそうですよね。今回これで違法性の宣言っていうのが行政に対して行き渡っているわけだから、違法の認識を持っているということになるわけです。だから今後同じことをしたら違法行為だという認識を持ちながら敢えて行うというもはや「故意」「悪意」があることになるんですよね。論理的には。注意義務違反はおろか、違法の故意を持ちながら敢えて行ったという認定になるはずですよね。

――そうすると、オセロの角を取ったみたいに、行政側の対応もパタパタパタパタっと、変わるかなって思ったんですけど、意外とそうでもないところ、行政側のなお頑なな態度に対する意外さを覚えました。

藤岡:まあ、それが行政というものなんですよね。本質というか体質、なんですよね。

――状況がちょっと変わって、他の自治体でもやっていることが明らかになって、その、「まあ他がやっているから、うちもまだいいか」的な部分もあるんでしょうか。

藤岡:それも大きいと思いますよ。あと所詮は障害者運動をやっている関係者っていうのは少人数で、選挙に響くほどの多数派ではないですから。今度4月に区長選と区議会選があって、今は本来市民の声というのを意識し始めている時期なんですが、NHKなりマスコミで区の姿勢があれだけ批判されたことで、もし区民がそれに乗っかってバァーっと批判の声を浴びせれば行政も対応を相当に変えざるを得ないとは思うんです。
 しかし、障害者手帳を持っている人が大田区民67万人の中で2万人。さらに手帳を持っている人がみんな本件に関心を持っているかというとそうでもない部分もあると思うから、例えば全盲の視覚障害の人が470人位という意味では、区民の中では100人に1人どころか2000人に1人位ですよね。もちろん2級の人も大きな影響を受けてはいるけれども、ガイドヘルプサービスを受けている、いわゆる全盲の視覚障害者の人が全体で言えば実に2000人に1人位しかないわけだから、全盲の視覚障害者の人が仮に全員立ち上がってこんなことをやっている議員には投票しませんとしたところで、67万人の中の400人の意見なんて聞いても聞かなくてもそれほど影響ないという話になってしまう。例えば先ほどの保育の話も、影響を受ける人が確実に何万人単位になるような問題なのにもかかわらず、大田区は結構平然と声を押しつぶして、相当強引に政策を推し進めているんです。ましてやこれが1000人にも満たないような人達の話だとすると、かなり強引に推し進めても平気だっていう感じがあるのでしょう。

 

◇研究者・法科大学院生へのメッセージ

――法科大学院ができて行政法が司法試験科目で必修になってという中で、行政法はこれからクローズアップされていくと思います。その中で、今までのお話の中でもいくつか出てきたと思うんですけれども、実際の行政訴訟における難しさが行政法理論に反映されているのかどうか、行政法理論を構築している学者の先生への要望などはありますか。

藤岡:そうですね。行政法の先生方には現実に市民に役立つ行政法理論をもっと構築してもらいたいし、現実を知って市民感覚に即した判断をしてもらいたいなあ、と思います。この件の法律改正・法律改廃による訴えの利益論の話というのも、先ほど言ったように、仮に一審で勝ったって控訴審で法律が改廃されていれば控訴審では敗訴するということになってしまう。じゃあそういう話を一般市民の人に説明して理解できるのかっていったら、まず「おかしい」って率直に市民感覚として感じると思うんですよね。だけど行政法の先生がこの問題を仮に試験問題に出したとしてどっちが正解かって言ったら、控訴審で訴えの利益なくなるのは仕方ないよねっていう人がいるんじゃないかと。まあそれが多いかどうかは分からないけれども、もしかしたら通説的な考えかもしれない。だとしたら、一審で訴えの利益があっても途中で法の改廃があったら訴えの利益が喪失するという理屈の方がおかしいとやっぱり考えるべきだろうから、そういう市民感覚にあった法理論を作ってもらいたいなぁ、という点がありますよね。
 この鈴木事件は他にも行政法上の論点がたくさんあります。今回、公法上の当事者訴訟を活用して要綱の違法を確認するという訴えを提起したわけだけれども、1つは過去の法律関係はダメだという論法があって、それ自体も良く考えてもらいたいというのはさっき言った通りです。
 他にも、要綱である以上は権利義務には関係がないから対象外だという発想も、一般論としてはあるのは百も承知なんだけれども、少なくともこの件では適用されるべきではないと思うんです。というのは、今回一般区民は要綱によって権利制限されているという実態にあるのは明らかだという立証を原告側はしているし、もう完全にその立証は尽くされていると確信しているんですよね。
 だからこの事案で公法上の当事者訴訟による違法確認が要綱に対してできないとしたら、今回の行訴法改正で公法上の当事者訴訟の確認訴訟を活用しましょうというあの議論はなんだったのか。むしろこの件のためにあの法改正があったんじゃないかっていう位に、公法上の当事者訴訟での確認訴訟というものを活用して物事を解決すべき事案だったと思っているんですよ。法規と行政規則という概念の中で、法規については法律関係性があるから確認の対象になるけど法規じゃないものは確認の対象にならない、といういかにも概念法学上の発想から、いかに実践的に現実的に国民の権利を規制している要綱だったとしても、その建前に乗っかって権利義務の確認対象にならないという理論。これがどれだけ司法救済、つまり司法の役目を自ら放棄しているのかと、そこを行政法理論としてよく考え直してもらいたいなあ、という気がしています。
 それと、やっぱり主観訴訟・行政訴訟というのは、非常にプライベートな私的利益の救済というような発想からまだあまり抜けきれてないな、という気がしています。
 堀木訴訟の堀木さんだろうと鈴木訴訟の鈴木さんだろうと、別に自分ひとりが助かりたいと思って訴訟を提起しているんじゃなくって、同じような立場に置かれた障害者、同じ地域に住んでいる障害者、あるいは日本全国の同じような立場で苦しんでいる人のためにやっているんだというその現実の実態を分かって欲しい。
 そして、本来行政訴訟というのはそういう役割を果たすべきだと思うんですよね。一つの事案を通して、同じような違法な行政はしてはいけないということで、全体的な行政の是正をする機能というのは絶対に果たすべきだと思うんです。そうじゃなかったら、例えばこの移動介護要綱で2万人の障害者が苦しみましたってときに、2万人全員が裁判を起こさない以上要綱は変わらないのかと、そういう話ですよね。
 議論の中身としても、今回要綱に従うことによって介護費の支給量が激減する、よって身体障害者福祉法に違反する、という非常に苦しい論理立てをしているんですよ。「従うことによって」ということは、じゃあそもそも要綱に従っちゃいけなかったのかということですよね。でも役人には行政規則に従う法的義務が内部的にある以上、従ったことがいけないって言ったところで役人は従うに決まっているんです。
 だとしたら、「要綱に従って違法になる処分」ということは、論理的に考えたってそもそも従うべき規範となった要綱が違法だったと考えるしかないわけなんです。
 裁判長である杉原さんの書いた論理立ての苦しさを見ても、そもそも要綱それ自体の違法確認を認めるべきだし、認めれば「要綱に従うことによって」なんて表現をする苦しさから解放されたと思うんです。だから、もっと素直に「こういうケースでは要綱が違法確認の対象になる」っていう議論に現場の裁判官が安心して乗っかれるような行政法理論というのを行政法学者に作ってもらいたいってのはありますよね。
 次に社会保障法学者にも言いたいのは、今回の判決では一番肝心な障害者基本法には一言も触れられていない点です。私は、それはやっぱりものすごい欠陥だと思っていて、障害者の権利についての基本法である障害者基本法が一行も引用されることなく判断されている判決って何なんだろうかと。
 もちろんそれは裁判官の思考回路というか、人権を考える際の不備だとは思うわけだけれども、それを許しているのはなぜかっていうと、1つには社会保障法学が社会保障に関する基本法の大切さを法理論の中で構築できていないところにも大きな原因があるんじゃないかな、と思うんですよね。例えば本件でいえば「障害者基本法というのはこういう法律であって、具体的には実体法にはこういう影響を及ぼして解釈がされるべきであって・・・。」というようなことを、一般の法律家の目に入るような形でもっと論理構成して論理が打ち立ててられていれば、障害者基本法に一言も触れられることのない判決にはならなかったんじゃないかな。
 さらにもっというと、身体障害者福祉法の支援費制度の支給決定のあり方についての解釈基準なんていうのは、社会保障法学者からほとんど触れられていない。河野正輝先生の本に「市町村の裁量による」っていうことを簡単に書いてある程度であって、その下の「個々の障害者の需要に応じて決められるべきだ」っていうのは今回この裁判でようやく作り出されたんです。
 もしも、そういうコンメンタールなり注釈本、例えば「支援費制度コンメンタール」みたいなものが社会保障法の専門学者からちゃんと出ていれば、私はそういうものを使って、ここまで苦労せずに裁判官に対して今回の法解釈を提示できたはずなんです。
 だけど現実にはそういうこともできなかった苦しさがあるわけだから、「障害者自立支援法コンメンタール」を是非、利用当事者の視点を基礎そして介護保障支給に関する法理論を学者の学説でしっかり提示して欲しいですよね。そういう本が現実にないから私たち弁護士もほんとにもう徒手空拳みたいな状態だし、一方では色んな学者の先生に「助けてください」と言っても必ずしも具体的な助力をいただけるわけではない現実があるから、本業としてそこら辺をぜひ実践して欲しい。
 アメリカ法の理論とかドイツ法の理論とか海外の裁判例とかに関して学者の先生方はみなさん非常に色んな論文を発表されて非常に高尚な理論を知ってらっしゃるのに、いざ足元の日本の障害者の実践の場での法解釈の提示はどうかっていうと、これは正直あまりなされてない現実にあるんですよ。
 支援費制度の仕組みに関しては「措置から契約へ」みたいな抽象的な制度の説明をしているだけで、「制度がこう変わりました」っていう役人でもできるような制度説明はなされているけれど、一番重要な権利の中身についての法解釈が専門学者から詰めた議論があまり提示されていない現実がある。その辺の役割をもう少しちゃんと果たして欲しいな、ということを社会保障法系の学者の先生にはお願いしたいですよね。そういう思いを込めて具体的な実務の報告を専門家に提供していますので、実務と理論を繋いでいければいいですね。

――それでは最後に、法曹を目指している法科大学院生へのメッセージ、これから法曹になるうえで、こういう部分を意識して、こうなって欲しいということがあれば、メッセージをいただけますか。

藤岡:やっぱり机上の概念から入るんじゃなくって、生身の人に当たって現実では何が起きているのかを肌で感じてもらう所から出発して欲しいな、っていうのがありますね。そうでないと、「持続できる社会保障政策のためには給付をいかに抑制するか」っていうところから頭が入ってしまい、現実にどんなことが行われていて、それに苦しみを感じている人がいるんだってことが分からない。
 そうすると、仮に相談を受けて依頼されても、例えば訴状や準備書面も本当の生身の苦しみが分からない無味乾燥なものになってしまうし、そういう感覚の弁護士には、当事者は依頼しないし依頼するだけの信頼関係を築けないと思うんです。実際に弁護士になってからどうやってそういうことを身につけていくのかっていうことは一言では言えないけれども、本当に現場の現実の苦しみに寄り添うような姿勢を持った上で仕事をやらないとこの手の仕事は難しいかな、という感じはしますね。

――こういう分野にもっと高い関心を持って欲しいとか、あるいは今の法曹の現状がこういう分野に対して弱いのではないかという、そういう問題意識はありますか。

藤岡:そうですね。本当の意味でこういう分野に理解のある弁護士っていうのは正直あんまりいないだろうと思う。でも障害者の人のことが本当に分かる弁護士が少ないのはやっぱり問題だと思うから、これだけ法曹増える以上は、大多数がやってくれとは言わないにしても、その中で関心持ってくれる人たちには是非やって欲しいなあと。そういうことをやってくれる仲間が増えて欲しいなと、そういう思いはやっぱりありますよね。

――ありがとうございました。

 

脚注一覧

注1 障害者が、ホームヘルプサービスや施設を利用するために必要な費用を、市町村が支給する制度。旧身体障害者福祉法第17条の4。

注2  支援費の支給対象となる外出を「社会生活上必要不可欠な外出」と「余暇活動等の社会参加のための外出」の2つに区分し、前者については支援費の支給量に上限を設けないが、後者について上限を32時間とする、という内容であった。

注3 その他に国家賠償も請求していたが、裁判所は、支給量決定について公務員に注意義務違反がないとして、請求を棄却した。

注4 支援費制度は、身体障害者福祉法に規定されていたが、平成18年4月に障害者自立支援法が施行されたことに伴い廃止され、身体障害者福祉法から支援費制度に関する規定が削除された。

注5 http://suzukikeiji.hp.infoseek.co.jp/ 「鈴木敬治さんと共に移動の自由をとりもどす会」

注6  生活保護の生活扶助における支給額加算の1つ。家族外の介助により生活する場合、介助者に支払われる費用として支給される。

注7 在宅の要介護者の日常生活支援や家事援助等を行うもの。この中に、外出のために必要な介護も含まれていた。

注8 厚生労働大臣が承認した場合、特別基準での支給が受けられる。

注9 要綱において、特段の事情により区長が必要と認める場合には、上限である32時間を超えて必要な支給をすることができる旨を定めていた。

注10 生活保護法による住宅扶助の一環として、転宅のために必要な敷金等が交付される。

注11  支援費の支給量を決定するにあたっては、市区町村の職員による生活状況(支援の必要性等)の聞き取り調査が行われ、その結果が調査票に記載される。旧身体障害者福祉法第17条の5第2項。

注12 本件で、大田区が策定した要綱。障害者の外出を「社会生活上必要不可欠な外出」と「余暇活動等の社会参加のための外出」の2つに区分し、前者については支援費を上限なく支給するが、後者については上限を32時間として支援費を支給することを定めていた。

注13  要綱では、「社会生活上不可欠な外出」とは「医療機関等への通院、公共機関及び金融機関等の手続きなど、社会通念上当該外出を行わないことにより、日常生活において著しい不都合が生じるとして区長が必要があると認める外出をいう」と定められている。

注14 「余暇活動等の社会参加のための外出」とは、「社会生活上必要不可欠な外出に該当しない目的の外出をいう」とされ、支給量の上限は32時間に制限される。

注15 結審したのは平成18年9月8日

注16 児童福祉法39条

注17  労働組合法7条

注18  インタビュー時は平成18年12月16日。

注19 インタビュー後の平成19年1月中旬に、大田区は鈴木さんの移動中介護支給量を月90時間相当認める決定を行った。
このことについて藤岡弁護士のコメント「判決文では原告の移動介護が月124時間必要とはっきり断定されている以上、行政庁は司法府の判断に従って素直に月124時間認めるべきなのは明らかなのに、市民の言うなりになるのは沽券に関わるとでも言うがごとく90時間という意味不明の決定を出してくる行政庁には、三権分立の基本を学び直して頂きたい」