【第2回】
3.第二のキーワード-「理論と実務の架橋」(続き)
◆弁護士に要件事実は要らないって本当?


山野目:
 他方で、感情的な反発もあり、なぜ要件事実論をやらなくちゃいけないんだ、あんなことをやらなくても今まで通りで教育できるではないか、という議論もあります。そこはそうではないんだということは、いま村田先生にお話して頂いたと思います。

あんなもの要らないのではないのか、という議論との関係で、ちょっとこれは更に村田先生にご意見伺ってみたいと思うんですけども、よく教室の現場でやり取りしていると、学生諸君の中にこういうことを言う人がいます。「自分は将来裁判官になるつもりはない、弁護士になるんだ。だから、判決書において主張の整理、事実の摘示ということを調った仕方で要件事実論に則ってやるという場面はない。」と。「弁護士は訴状や準備書面を出せばよい。事情の欄にいろんなことは書くでしょう。いろんな事情はこちらに主張責任・立証責任があろうがなかろうが、わーっと書きます。それで、実際には先行自白や特に先行否認になっているかは、別にいいじゃないですか、書くことは同じなんですから。」というふうな議論をする人がいるようです。
早稲田にはそういう方はいないと思うんですけど、時にはですね、弁護士である実務家教員自身も教えながら、「要件事実論ではそう言うけど 本当は事情の欄に全部書いちゃうからね。」、「相手に立証責任がある事柄であっても、どこまで本当に整理がいるんでしょうかね。」、などとおっしゃられていることもあるようです。
そうなってくると、段々と、「試験に出るから覚えなくちゃいけないんであって、実務とは関係ないんだ。」と言う弁護士志望の方が出てくる。村田先生もそういうご経験おありかもしれないんですけど、そういう場面に時々ぶつかるんですね。

何回かそういう目に私はあったものですから、こちらにはその質問のときのマニュアルが用意されていて(笑い)、私自身は大体3つぐらいのことを言うことにしています。

1点目は、弁護士であったとしても、もちろん事情の欄を活用すること自体は、とがめられるべきことではないんだけれども、要件事実の正確な理解が無ければ、その訴訟の運営についての全体的な、構造的な見通しを正確にもつことができないはずである注13 。その訴訟の運営の見通しを全部裁判所にイニシアティブが握られてしまうことになります。つまり、裁判所を仰ぎながら個々の事案の処理の対応をしていくことになる。君はそれで弁護士として誇りに欠けるところはないのか、ということです。見通しをもった訴訟運営を、裁判所だけでなく弁護士のほうも持つためには、要件事実の理解が大事である、というのが1点目の回答です。

2点目がまさに先生がおっしゃったことでして、具体的に考えると要件事実がそろっていなければ、相手方が出頭しなかったときの擬制自白が調わないではないか、という問題がある。
ただ、この点に関しては、「いや全部書きますからいいんです。」と学生は反論してきます。沢山書いたほうはそれでいけるんじゃないか、というわけです。それに対しては、しかしやはり、先ほどの1点目のことがあると思います。

3点目としては、これはちょっと違う性質のことですけれども、「自分は裁判官になる、ならないと決め付けるな。」と注意するのですね。裁判所というのも今まで以上に魅力のある世界になっていくんでしょう。「自分は弁護士になるから。」という発想というか、物の言い方自体あんまり好きになれない。たぶんこれからの法曹界って、おそらく弁護士と裁判官の間の往き来って、今まで以上にあるはずなんですよね、だからそういう多少、進路指導的な観点を含めた回答が3点目です。

都合3つくらいのことを私はマニュアルとして用意して、「さあこの質問が来た。」というときには言うことにしているのですが、先生はどのような見方ですか。

村田: 何でも記載すればいいというのでは、整理とはならないわけです。例えば、当事者、クライアント本人と面接するときに、当事者本人は事件にとって必要でない事実でも何でも言いますよね。例えば、生い立ちからずっと言うわけですよ。売買契約の代金を請求するときに、「私はどこで生まれて、こういう生活していて、私は人を裏切らない人間です。」などと言うわけです。広い意味で言えば、これらも間接事実、補助事実です。自分の主張は正しいということの間接事実、補助事実です。そこから始まるわけです。「大学もここに行って、私、法学部を卒業していますから私の判断に間違いはないです。」とも言います。
しかし、例えば、弁護士がそのような事情聴取のために一日を費やすというわけにはいかないでしょう。例えば1時間、2時間で事実の把握をしなければならない。そのような情報で訴状を書きます。そのときに、「何でも書きますよ、何でも言ってください。」とは、言わないはずです。実際には、どうやって法律構成していくかということを考えながら、当事者本人と応接面談するのですが、要件事実の知識がないと、その際の指針や指標といったものが全くないことになってしまうのです。
当事者本人が、「先生、私の言うこと聞いてくれないのですか。」などと言ったときに、「貴方の生い立ちは関係ないのです。」と説明しなければならない。「いや、だって、私は嘘つかないですよ、それには生い立ちが重要なのですよ、関係あるじゃないですか。」と言われたときに、「それは、まず相手方の対応を見てから主張立証することです。」と、「相手方がこちらの主張事実を争ってきて、こちらの主張の信用性が問題になったときに言えばいいことだから、とりあえず最初は主張しないでいいでしょう。」と説明するわけです。

実際には、大事なこととして「相手方に何を請求したいのですか。」ということを聞きます。これに対して、当事者本人が、「いや実は相手方と何月何日に会って、こんなことがあったのですよ。」、「うん、それで?」ということで、そのような話が延々と続いていくということでは困ることになります。
これを、「貴方の欲しいものは何ですか。」、例えば、「お金が欲しいのです。」「どうしてですか。」「こういう契約したからです。」「その契約はどんな契約でしたか。」、「その契約はいつ締結したのですか。」、「証拠はどのようなものが手許にありますか。」という切り口が民法であり、それが要件事実なのです。

要するに、ある請求、ある行為を相手方である被告に求めるときに、その行為を求めるためには、最低限何を主張しなければならないのかということです。そして、その主張事実を争うのであれば、次にこの争われた主張事実をどのように立証していくのか、つまり間接事実、あるいは補助事実ということの位置付けができていないと、全部が同じ位置にある事実であり、要件事実であると考えたら、例えば訴訟の最初から、本人の生い立ちから経歴などについて、「小学校はどこに行って、中学校はどこ行って、高校はどこで、一所懸命に努力して早稲田大学に入ってね。」とか、そのようなことも主張しなければならなくなるでしょう。
だから、実は、主要事実が要件事実なのですけども、主要事実と間接事実、補助事実、再間接事実、再補助事実、これらを合理的に位置付けるということが大切になります。しかも、「争点は、生い立ちではなく、売買契約の金額ですよ。」、あるいは「売買契約を締結の有無ですよ。」と それで、「この事件では、契約書は無く、口頭で契約したので、この点は人証で立証しますよ。」というような議論をして、事案の概要を把握することになるのです。
主要事実レベルの骨格がまず分かっていないと、その事実のもつ意味合いが、的確に位置付けられないんですね。そうすると、例えば動機から何からすべてが争点になってしまって。生い立ちが争点であるなんていうことになったりするのです。そんなことはあり得ないことですよね。
当事者本人が、「相手方がどれだけ悪い人間かを立証したいんです。」と言ってきたらどうしますか。「そうしたら、私が言うことが正しいって思ってもらえるじゃないですか、これが要件事実で、大切な事実ですよ、これが本件訴訟の目的ですよ。」と言ってくるとします。そのような場合、弁護士さんに要件事実的思考が無いと、「うん、そうですね。」と思ってしまうかもしれない。そして、「じゃあ、相手方が悪い奴だということを最大の争点にしよう。」なんて言われたらどうやって裁判を進めるんですか、ということなのです。

山野目先生もおっしゃいましたが、全体的な見通し、個々の事実がもつ意味についてしっかりした位置付けを持っている人と持っていない人とで
は、切り口のシャープさ、事案の的確な認識・把握力、訴訟活動における進展の速さが全く違うことになります。そういう見通しのない人は、すべてが平板で、すべてが重要な事実ということになります。そして、陳述書も訴訟の帰趨にとってはどちらでもよいこと、つまらないことを沢山書いてきて、大事なことがほとんど抜けていたりするのです。そういう陳述書を出されたら、もう一度書いてくださいと、今度は争点との関係でここを重視して書いてくださいといわなければならないことになり、その場で実質的な争点整理ができないことになってしまうのです。
そのようなことを考えると、円滑で迅速な、そして適正な訴訟活動のためにも、要件事実的な思考は欠かせないということです。

要件事実論は判決書を作成するためのものであって、裁判官が分かっていればいいというのは、非常に問題のある思考だと思います。これからは、日本の司法界でも、毎年3000人程度の法曹が生まれてくるわけです。その中で、裁判官になる者は恐らく少数、例えば100人から200人くらいかと思います。本当はもっと増えればいいのですけれども。そういう少ない裁判官が重い釈明義務を負わされて、多くの事件で、「こういうことを主張立証してくださいよ。」、「これは主張しないのですか。」、といった釈明義務を負わされることになるわけです。
現時点では、最高裁が裁判官に要求する釈明義務というのは一般にかなり重い注14 と言われています。それはなぜかというと、最高裁も含めて、我々裁判官は「正義必勝」というメンタリティーを持っています。代理人がどんな人だって、言葉は悪いけども、どんなに出来ない人だって、事件として勝てる事件、勝つべき事件は勝たなければいけないと、それが裁判であり、それが正義の実現ということだということです。
そうすると、このような事件では、こういう事実があるでしょうと、裁判官が事実経過から窺われる事情を基にして求釈明することになります。訴訟代理人が本来やるべきことでしょうけれども、それを代理人がしないならば、裁判官がそれを指摘し、釈明してくださいということになります。しかし、今後の法曹人口の急激な増加などを考えますと、このように厳格な釈明義務についての考え方を維持できるか、維持すべきかは再検討しなければならない時期に来ているのではないかとも思います。

司法制度改革審議会の意見書の前提は自然淘汰注15 ということですね。良い法曹は生き残る、良くない法曹はそれなりに、ということでしょうが、この淘汰が起こる一番の要因は、訴訟代理人の訴訟活動であり、判決の勝敗ということであろうと思います。ところが、訴訟代理人が十分な法的能力・法的素養が無くても、重い釈明義務の存在によって、どのような訴訟活動をしても負けないということになると、そのような状況下で本当に淘汰が起こるのか、というようなところももう一回考えていかなければならないところであろうと思っています。
そういう意味では、法曹界における自然淘汰が起こる前提の不可欠な要素としても、そして、現実に淘汰が起こった際に自分が淘汰されないためにも、要件事実的な思考は極めて大切であろうと思います。

山野目: 学生諸君の意見も頂いてみましょう。
いままさに村田先生から重要な点が指摘されました。学生諸君の民事訴訟法の答案を読んでいると、こういうときは釈明すればいい、という答案が多く出てきます。民法の答案では、困ったときには信義則、民訴の答案では困ったときには釈明義務という答案がよくあります。
最高裁の判例の傾向が釈明義務を非常に重く見ているというのは、裁判規範としてはそれ相応に根拠があることでしょうが、これから法律家となっていく学生諸君の心構えとして、いわば行為規範としてみたときに、全てを釈明義務に頼って、つまりは全てを裁判所のイニシアティブに頼って訴訟運営していくということで、「それであなた方が弁護士になったと
きに、職業人としての矜持は保てますか。」ということを考えると、正しく理解された要件事実論を、熱意を持ってやっていただくことは、やはり重要だろう、と教える側は感じています。
ただ、非常に新しい素材でもありますから、学生諸君の間にも受け止め方に色々と違いがあるかとは思います。

学生: 私もまた、何でもかんでも釈明に頼るべきではないとは感じています。それはそれとしまして、要件事実の学習をやってきて、強く感じたことが一つあります。学校で教えられると、要件事実では、極限まで贅肉をそぎ落としたものが正解とされると感じました。それが、一番骨格になる部分だとは思いますし、骨組みが大事なのはよくわかるのですが、それ以外の部分を書くことがマイナスかのようなイメージを受けました。私は、骨組みさえしっかり理解していれば、多少贅肉がついていてもいいのではないかと、いろいろと勉強しながら思ったのですが、そのへんはいかがですか?

 

◆骸骨の裸踊りという批判に応える

村田: それは、よくいわれることですね。骨と皮だけで成り立つのが要件事実で、がい骨の裸踊りだと言われる弁護士さんもいらっしゃいますね。しかし、この批判あるいは揶揄は、要件事実論というものを十分に理解していただいていないことから生じているのではないかと思っています。

 要件事実論の基本的考え方は、まず第1に、民法がどういう事実があれば権利が発生すると規定していますか、どういう事実があれば権利が消滅すると規定していますかということを問うことだと思っています。実務では、そこに肉をつけるのです。大切なことは、この肉は権利の発生には不要ですよと、この骨だけで権利は発生しますよと、こういうことが分かっていれば、全く問題ないのですが、それが十分に理解されていないと困るのです。

 確かに、肉があって、形がついてきて、やっと人間らしくなる。そうすると親しみももてるというようなこともあるとは思いますが、要件事実論に関する教育的観点からいうと、要件事実論とは、権利の発生要件あるいは消滅要件として、何が必要で、何が不要かということを民法の条文等に従って正確に分析し、考えるという訓練をするものなのです。そして、民法を適用するために必要な事実の分析についてを正確に分析し、考えるというのが理論としての要件事実論の基本だろうと思います。

 法科大学院における教育の場では、このような理論的な分析・思考ができるかということを問うているわけです。そのときに、すこし肉付けをして、この肉もあっていいじゃないですかといわれてしまうと、この肉の部分が、 例えば否認されて証拠によっても認定することもできないが、骨の部分は争いがないということになった場合、この肉の部分をしっかりと立証したいから、証拠調べをしてくださいよと主張することが相当かどうかということです。これは、理論的には不要ですね。

 ですから、まず、骨の部分は何かということを理解してください。それを踏まえて、第2段階として、肉付けをすることによって、この権利は確実に発生していることが印象付けられ、あるいは説得的な主張となる。ただ、これは第2段階なんですね。第3段階は、さらに服を着せて、これで完成品ですとするのですね。つまり、要件事実論を勉強してもらうのは、その骨の部分が何かを理解してもらうためなのです。それは、次の段階の検討を行うための基礎的素養なのです。

 確かに、肉付けをして、服を着せてやりたいと思うのは、人情として当然ですよね。例えば、実際の訴訟において、所有権に基づく物の返還請求訴訟で、原告が所有している、被告が占有している、よって明け渡せという要件事実の理論では、料理で、骨だけを食べなさいというようなものでして、ここには肉がないと料理にならないわけです。ただ、そういうものを、我々は教場で教えているつもりはないのですよ。服を着せて、肉を付ける前に、まずはじめに、骨格はどうなんだろうということを考えてみてください。肉付けは、その後で、例えば法文書作成の科目等といった別の授業でやりましょうということです。まず、民法として理論的分析をしっかりできるようにすることが大切であり、そのような分析や条文解釈をするのが要件事実論だと思っています。


 実は、民事裁判における法律構成というのは、このような骨格構成というわけです。骨格がしっかりしていると、後で肉をつけても贅肉になりません。要するに、骨格をしっかりと組み立てられるような頭脳を持って欲しいという思いで、要件事実論に関する教育を行っているのです。
 
学生: ご説明は非常によくわかるのですが、それを突き詰めると、要件事実論が暗記に傾いてしまうのではないでしょうか。もしかしたら、骨の部分は暗記をした方がよいということなのかもしれませんが。
 
村田: いや、骨の部分についても暗記では困ります。学生にマニュアル志向が強いものの一つとして要件事実論が挙げられていますが、それは間違っていると思います。例えば、売買の要件事実、消費貸借の要件事実は、条文を読めば、暗記しなくても抽出できるはずです。条文に書いてあるのですから、そもそも暗記は不要でしょう。


 他方、学生に考えてもらいたいのは、具体的な事例問題等が出されたときに、その事例における要件事実の分析をどうするかということです。相手方の主張の位置付け、自分の主張の位置付け、これをどのように組み立てていくかが要件事実論の面白さであって、そこに暗記の要素が入る余地はないはずです。
 ですから、要件事実は暗記科目だという意見を聞くと、内心忸怩たるものがあるというか、悲しくなってしまうのです。

 
 まず、民法の要件事実は何ですかと問われれば、条文に答えは書いてあります。条文を見て、この条文の構成から、あるいは判例の考え方から、どのように要件事実を構成すればよいかを考える。そして、条文がないものについては、民法や判例に関する知識などを総合して、自分の頭で考えるのです。


 実際の問題点を見つけるときに、民法の類型的な要件事実は法律に書いてあるけれども、これを実際の事件に適用するということになると、個々の事案に即して臨機応変に、かつ柔軟に変更しなければなりませんから、これを自分の頭で考えるのです。これが民法学、要件事実論の面白さだと思います。ですから、決して要件事実は暗記モノだなどと思わないで欲しいのです。
 
山野目: 今おっしゃったことで、多分、前半部分と後半部分は、性質が違う問題であって、分けて考えたほうがよいと思います。


 前半部分の、肉をつけたくなる気持ちというお話との関係で言えば、私は、肉をつけてもよいと思います。ただ、ある部分が肉なのか骨なのかの区別はつけてもらう必要があるのであって、軟骨みたいな状態を一番心配しています。
 例えば、金銭消費貸借契約に基づいて貸金返還請求訴訟をするときの原告になる貸主が出す訴状には、実際上は、お金を返してもらってないということを、きっと書きます。それを書かない訴状は確かに、非常に不自然です。その不自然なことを嫌って、肉をつけていただいても一向に構わないし、それを書いたら、その訴状は訴訟法的に無効なのかというとそんなことも決してありません。そして、恐らく弁護士の先生は実務上そういうふうにしてます、とおっしゃるのかもしれません。
 しかし、要件事実の授業や試験でそれを含めると、先生が目じりをぐっと繰り上げて、お前それを請求原因だと思っているのか、と言って怒り出すのは、先行否認という性質をしっかりと理解しているか、それとも本当に請求原因事実だと思っているのか、そこのところがきちっと切り分けられていないからなんですね。教育の場面で行われている要件事実論としては、そこは切り分けて正確に理解して頂きたい。わかったうえで、意図的に、それを明示した形で肉をつける分にはかまわないということはいえるのではないかと思います。

 
 それから、後半部分についてですが、要件事実論に関しては、今、学生諸君の間に、暗記というか、マニュアル志向が全国的に広がってきていて、憂慮すべき状況になってきています。マニュアル志向でものを考えるということは、要件事実論に限らず法律の勉強一般において、絶対にやめていただきたいというふうに思います。


 暗記ではないということを一番わかりやすく気づいていただけるのは、民法の学説が甲説乙説と分かれているときに、要件事実論がどちらかの説を打ち消すことは論理的にありえない、ということです。そこが誤解されがちなのではないかと思います。
 例えば、研修所の本を読むと、両説のうち、甲説を採用しているとします。そのときに、民法の教科書に書いてある乙説は否定されるわけだから甲説を暗記して、それを前提とする請求原因、抗弁の割り振りを覚えればよいというイメージを持たれることがあります。
 しかし、きちんと議論を整理しなければいけないのは、甲説を採ったときの要件事実の整理と、乙説を採ったときの要件事実の整理と、どちらもあるのです。

 確かに、今までの司法研修所の教材は、民法上甲説乙説があるときに、実務上通説となっている甲説を前提に要件事実がまとめられていることが多いでしょう。しかも、司法研修所は、『問題研究』注16にせよ、『紛争類型別』注17にせよ、教場で先生が解説しながら使われるのが前提になっていますから、非常にコンパクトに書いてあります。そうすると、あそこに書いてあること以外のことは間違いであって、あそこに書いてあることを覚えればそれで足りるというイメージが、段々と醸し出されますが、それは、その教材の意味を正確に理解していないということになるでしょう。

 要件事実の教科書に書かれていない民法の説を主張する学者が、私は乙説を主張していて、これを前提にブロックダイヤグラムを描くとこうなるんだ、と言ってくれれば、裁判官との対話のひとつの局面を提供してくれることになって非常に面白いと思うんですよ。そこまで、学生諸君に全部付き合ってくれというわけではありませんが、裏返していうと、村田先生がおっしゃったように、暗記科目ではないということは間違いなくいえるような気がします。

 

◆要件事実を暗記科目にしてはいけない

学生: 一点、気になることがあります。そのように考えると、要件事実の試験問題は、細かいところをつくというのではなくて、まさに訴状を書けといったような形がメインになるべきだという気がするのです。たとえば、危険負担の要件事実を述べよといった問題の出し方というのは、暗記を促すような試験形態だと思っていて、危険負担の民事的な、実体法的な自分なりの考え方を出してから最後の帰結として要件事実的な結論を出すという一定の作業が必要になるような、つまりは訴状を書けというような試験形態が望ましいのではないでしょうか。

村田: 実務において、訴状を作成するときには、当該事件の請求原因の要件事実が何かが分かっている、あるいは請求原因の主要事実が何かが分かっている、間接事実が何かが分かっている、否認か抗弁かが分かっているということが前提となっています。これらが分かっているということであれば、訴状を作成しなさいという試験問題でも良いのですが、それが分かっているかどうかを確認・検証することを目的とする試験において、訴状を作成しなさいということでは、学生の理解度をみることは困難ではないかと思います。

 試験問題としては、どれが要件事実で、どれが間接事実で、どれが否認で、どれが抗弁で、どれが再抗弁の先行主張だということが分かるものであることが必要なのです。ですから、そのための試験問題としては、原告と被告の言い分に基づいて、請求原因、抗弁、再抗弁などに整理してもらうことで、学生の理解を問いたいのです。それで、必要最小限の要件事実に関する理解度を知ることができるのです。そこで、学生諸君には、このような分析作業を何度も何度もやってから、次のステージに進んで欲しいのです。

 法科大学院における教育の最終的な目標は、優秀な実務法曹として活躍する人材を育成するということでしょうから、確かに最終的に求められる能力は、訴状を書けること、準備書面を書けること、判決を書けることといってよいかもしれません。

 しかし、そこまでは法科大学院教育ではできないのです。そこで、せめて、理論的なものとして、要件事実論の基礎的な部分を学修してもらいたいということです。そのために、問題としては主に言い分方式の問題注18 を解いて、基礎的な素養を身に付けてもらいたいと思っています。ただ、そのこと自体が最終的な目的、終局的目標ということではありません。教育手法としてそのような手法で勉強することで、その学生が民法のものの考え方、要件事実というものの考え方が分かっているのか、分かっていないのかを確認・検証することができるのではないかと思っています。
 要件事実論は、このように教育手法として用いているということを分かってください。皆さんの理解度を確認・検証するには、現時点では、あのようなやり方が一番よいのではないかと思っています。抗弁なのに否認としているとか、学生の答案によくあるのですが、無権代理の抗弁などと書いてあったりすると、やっぱり理解できていないなぁ、困ったなぁと思うのです。

山野目: 司法研修所がなさっていた上段と下段という方法などをご紹介頂くと、今の質問と関連するのではないですか。

村田: 現在修習中の60期の修習生からは、上段と下段という方式はなくなるのですが、これまでの民裁起案の出題方法として、上段というのは、先ほど申し上げたような事実整理の答案を作成する問題を出題するということです。つまり、請求原因及びその認否を書いて、次に、抗弁及びその抗弁に対する認否を書いて、更に、再抗弁及びその再抗弁に対する認否などを書きます。

 これに対し、下段というのは、なぜ上段のように事実整理をしたかを書くのですね。そこには、抗弁の実体法上の効果はこういうことだから、これは抗弁になります、この点については反対の学説もありますが、この説はこういう理由で採用できませんというようなことも書いて、自説はこうで、自説を採用したのはこのような理由からですというようなことを書くのです。そして、この自説の立場から、民法の条文を解釈すると、要件事実はこのようになります。だから上段はこのように書きましたというようになるのですね。

 司法研修所の民裁教官が重視するのが、上段の主張整理もさることながら、本当に分かっているかどうかをみることができるものが下段ですから、この下段の記載を重視するのです。下段の書きぶりをみて、やっぱりこの修習生は分かっていないなと思うことも多いのです。上段はそれなりにきれいに書いているけれど、下段の理由付けが通り一遍であったり、ほとんど何も書かれていないというような場合もあるので、そういう場合には、やはりこの修習生は分かっていないということになるのです。
 そういう意味では、山野目先生がおっしゃっているように、A説とB説があるときに、A説をとる理由が、研修所がA説を採っているからというのは問題外で、評価することはできないですね。下段は、上段の事実整理とは別に書いてもらうのですから、B説があることも知っていますが、B説はこういう点から採用することができませんということも書いて欲しいのです。本当は、実体法・訴訟法に関すること、全般にわたっていろいろ尋ねてみたいのですが、時間の関係等でそれができないために、ある部分の位置付けや実体法的な意味などを明確にしてくださいというように尋ねているのです。

 ですから、少なくとも法科大学院で教育したいのは、綺麗に事実整理するということではないのです。事実整理の前提となる法律知識や事実分析能力をもっているかどうかを本当は尋ねたくて、そのために主張整理とその理由を尋ねるという形の問題を出しているのです。

山野目: みなさん、民事法総合Ⅲの試験を受けられていて、既にわかっておられると思うんですが、要件事実論を試験問題の素材にすることはそんなに困難なことではなくて、村田先生がおっしゃったように、言い分を提示しておいて、これこれの言い分を両者がもっている場合で、Xが訴える際に請求原因となる事実は何か、またそれを請求原因事実として考えた理由を述べよという出題にすれば、理由のところでその人の実体法の理解が明らかになるわけですよね。

 その実体法理解と要件事実の整理がきちんとロジックでつながっていれば、それは結果的に判例と異なる結論だったとしても、全体がきちんとまとまっていれば、それは得点の対象となるし、反対に仮に判例の結論と一致していても、何の理由も書いてなくて、理由付けが貧弱な人がいて、ほら時々教室でもいるでしょ、「何でこれが請求原因事実になるんですか?」「確か司法研修所の本に書いてありました。」と言う人が。あれだと結論がどんなに美しくても高い点数はもらえない。

 

◆要件事実論ブームをどう考えるか

村田: さきほど山野目先生から要件事実論ブームというお話があったんですけど、要件事実論ブームになった理由は、司法制度改革審議会の意見書において理論と実務の架橋のひとつの例として、要件事実論が取り上げられたということもあるのですが、それだけではなく、要件事実論というのは法律実務家の共通言語と言いましたが、実務家としてもっておいてもらうべき素養、基礎的な部分だと思うのです。
 しかも、要件事実論を考える上では、民法が欠かせないということですから、ここに実務の共通言語であるとともに、民法を前提とする理論ということから、理論と実務の架橋という意味で格好の題材になるのですね。ですから、実務教育の導入部分として象徴的な科目ではないかと思いますし、体系的な理論を基盤として、実務のあり方をみていくという意味でも、普通に勉強していけば架橋が果たされていることになる科目であると思っております。
 さらに、創造的な思考力とか、法的分析力の育成にも役立つものだと思っています。というのは、これまではどちらかというと、学部での民法学は行為規範的な面が強く、民法の要件はこうですよと、実体法上の要件はこうですよと、それでこういう場合にはこういう法律要件に基づいて、こういう効果が発生しますということが問題であったのが、要件事実的な思考からすると、裁判では何を主張立証すべきかという観点が入ってきます。そういう意味では、行為規範から裁判規範への移行というか、言葉が悪いですけど、平板な法律要件の段階から、立体的な法律要件の段階に入るといいますか。そのような意味でも、実務と理論の架橋の実現ということが象徴的に現れる科目ではないかと思います。

 また、要件事実ブームのもうひとつの側面は、法科大学院ができて、実務家教員と研究者教員が一緒に教壇に立つというような状況になったことにもあると思います。学者と実務家がお互いに交流する機会が、あるいは相互に対話する機会が生まれてきたということではないかと思っています。要件事実論者といわれる実務家の中には、これまでに蓄積された多様な民法学における研究成果や理論的な部分を、要件事実を考える上で取り入れていきたい、あるいは、これまでの司法研修所あるいは実務で行われている要件事実の考え方について、理論的な検証をして光をあててもらいたいという要望がかなりあるように思います。また、民法学者の先生方の中には、実は要件事実的にこれまでの民法学の議論を顧みることによって、何か新しい発見や理論等が生まれるのではないかと期待されている部分もあるのではないかと忖度しています。

 要件事実論ブームとは別に、法科大学院においては、法律実務家と研究者教員が、法曹養成教育を一緒になって行うということは続いていくであろうと思いますので、是非、要件事実論と民法学の対話を続けていって頂きたいと願っています。

山野目: ありがとうございました。

 

 

【第2回】
3.第二のキーワード-「理論と実務の架橋」(続き)
◆弁護士に要件事実は要らないって本当?


山野目:
 他方で、感情的な反発もあり、なぜ要件事実論をやらなくちゃいけないんだ、あんなことをやらなくても今まで通りで教育できるではないか、という議論もあります。そこはそうではないんだということは、いま村田先生にお話して頂いたと思います。

あんなもの要らないのではないのか、という議論との関係で、ちょっとこれは更に村田先生にご意見伺ってみたいと思うんですけども、よく教室の現場でやり取りしていると、学生諸君の中にこういうことを言う人がいます。「自分は将来裁判官になるつもりはない、弁護士になるんだ。だから、判決書において主張の整理、事実の摘示ということを調った仕方で要件事実論に則ってやるという場面はない。」と。「弁護士は訴状や準備書面を出せばよい。事情の欄にいろんなことは書くでしょう。いろんな事情はこちらに主張責任・立証責任があろうがなかろうが、わーっと書きます。それで、実際には先行自白や特に先行否認になっているかは、別にいいじゃないですか、書くことは同じなんですから。」というふうな議論をする人がいるようです。
早稲田にはそういう方はいないと思うんですけど、時にはですね、弁護士である実務家教員自身も教えながら、「要件事実論ではそう言うけど 本当は事情の欄に全部書いちゃうからね。」、「相手に立証責任がある事柄であっても、どこまで本当に整理がいるんでしょうかね。」、などとおっしゃられていることもあるようです。
そうなってくると、段々と、「試験に出るから覚えなくちゃいけないんであって、実務とは関係ないんだ。」と言う弁護士志望の方が出てくる。村田先生もそういうご経験おありかもしれないんですけど、そういう場面に時々ぶつかるんですね。

何回かそういう目に私はあったものですから、こちらにはその質問のときのマニュアルが用意されていて(笑い)、私自身は大体3つぐらいのことを言うことにしています。

1点目は、弁護士であったとしても、もちろん事情の欄を活用すること自体は、とがめられるべきことではないんだけれども、要件事実の正確な理解が無ければ、その訴訟の運営についての全体的な、構造的な見通しを正確にもつことができないはずである注13 。その訴訟の運営の見通しを全部裁判所にイニシアティブが握られてしまうことになります。つまり、裁判所を仰ぎながら個々の事案の処理の対応をしていくことになる。君はそれで弁護士として誇りに欠けるところはないのか、ということです。見通しをもった訴訟運営を、裁判所だけでなく弁護士のほうも持つためには、要件事実の理解が大事である、というのが1点目の回答です。

2点目がまさに先生がおっしゃったことでして、具体的に考えると要件事実がそろっていなければ、相手方が出頭しなかったときの擬制自白が調わないではないか、という問題がある。
ただ、この点に関しては、「いや全部書きますからいいんです。」と学生は反論してきます。沢山書いたほうはそれでいけるんじゃないか、というわけです。それに対しては、しかしやはり、先ほどの1点目のことがあると思います。

3点目としては、これはちょっと違う性質のことですけれども、「自分は裁判官になる、ならないと決め付けるな。」と注意するのですね。裁判所というのも今まで以上に魅力のある世界になっていくんでしょう。「自分は弁護士になるから。」という発想というか、物の言い方自体あんまり好きになれない。たぶんこれからの法曹界って、おそらく弁護士と裁判官の間の往き来って、今まで以上にあるはずなんですよね、だからそういう多少、進路指導的な観点を含めた回答が3点目です。

都合3つくらいのことを私はマニュアルとして用意して、「さあこの質問が来た。」というときには言うことにしているのですが、先生はどのような見方ですか。

村田: 何でも記載すればいいというのでは、整理とはならないわけです。例えば、当事者、クライアント本人と面接するときに、当事者本人は事件にとって必要でない事実でも何でも言いますよね。例えば、生い立ちからずっと言うわけですよ。売買契約の代金を請求するときに、「私はどこで生まれて、こういう生活していて、私は人を裏切らない人間です。」などと言うわけです。広い意味で言えば、これらも間接事実、補助事実です。自分の主張は正しいということの間接事実、補助事実です。そこから始まるわけです。「大学もここに行って、私、法学部を卒業していますから私の判断に間違いはないです。」とも言います。
しかし、例えば、弁護士がそのような事情聴取のために一日を費やすというわけにはいかないでしょう。例えば1時間、2時間で事実の把握をしなければならない。そのような情報で訴状を書きます。そのときに、「何でも書きますよ、何でも言ってください。」とは、言わないはずです。実際には、どうやって法律構成していくかということを考えながら、当事者本人と応接面談するのですが、要件事実の知識がないと、その際の指針や指標といったものが全くないことになってしまうのです。
当事者本人が、「先生、私の言うこと聞いてくれないのですか。」などと言ったときに、「貴方の生い立ちは関係ないのです。」と説明しなければならない。「いや、だって、私は嘘つかないですよ、それには生い立ちが重要なのですよ、関係あるじゃないですか。」と言われたときに、「それは、まず相手方の対応を見てから主張立証することです。」と、「相手方がこちらの主張事実を争ってきて、こちらの主張の信用性が問題になったときに言えばいいことだから、とりあえず最初は主張しないでいいでしょう。」と説明するわけです。

実際には、大事なこととして「相手方に何を請求したいのですか。」ということを聞きます。これに対して、当事者本人が、「いや実は相手方と何月何日に会って、こんなことがあったのですよ。」、「うん、それで?」ということで、そのような話が延々と続いていくということでは困ることになります。
これを、「貴方の欲しいものは何ですか。」、例えば、「お金が欲しいのです。」「どうしてですか。」「こういう契約したからです。」「その契約はどんな契約でしたか。」、「その契約はいつ締結したのですか。」、「証拠はどのようなものが手許にありますか。」という切り口が民法であり、それが要件事実なのです。

要するに、ある請求、ある行為を相手方である被告に求めるときに、その行為を求めるためには、最低限何を主張しなければならないのかということです。そして、その主張事実を争うのであれば、次にこの争われた主張事実をどのように立証していくのか、つまり間接事実、あるいは補助事実ということの位置付けができていないと、全部が同じ位置にある事実であり、要件事実であると考えたら、例えば訴訟の最初から、本人の生い立ちから経歴などについて、「小学校はどこに行って、中学校はどこ行って、高校はどこで、一所懸命に努力して早稲田大学に入ってね。」とか、そのようなことも主張しなければならなくなるでしょう。
だから、実は、主要事実が要件事実なのですけども、主要事実と間接事実、補助事実、再間接事実、再補助事実、これらを合理的に位置付けるということが大切になります。しかも、「争点は、生い立ちではなく、売買契約の金額ですよ。」、あるいは「売買契約を締結の有無ですよ。」と それで、「この事件では、契約書は無く、口頭で契約したので、この点は人証で立証しますよ。」というような議論をして、事案の概要を把握することになるのです。
主要事実レベルの骨格がまず分かっていないと、その事実のもつ意味合いが、的確に位置付けられないんですね。そうすると、例えば動機から何からすべてが争点になってしまって。生い立ちが争点であるなんていうことになったりするのです。そんなことはあり得ないことですよね。
当事者本人が、「相手方がどれだけ悪い人間かを立証したいんです。」と言ってきたらどうしますか。「そうしたら、私が言うことが正しいって思ってもらえるじゃないですか、これが要件事実で、大切な事実ですよ、これが本件訴訟の目的ですよ。」と言ってくるとします。そのような場合、弁護士さんに要件事実的思考が無いと、「うん、そうですね。」と思ってしまうかもしれない。そして、「じゃあ、相手方が悪い奴だということを最大の争点にしよう。」なんて言われたらどうやって裁判を進めるんですか、ということなのです。

山野目先生もおっしゃいましたが、全体的な見通し、個々の事実がもつ意味についてしっかりした位置付けを持っている人と持っていない人とで
は、切り口のシャープさ、事案の的確な認識・把握力、訴訟活動における進展の速さが全く違うことになります。そういう見通しのない人は、すべてが平板で、すべてが重要な事実ということになります。そして、陳述書も訴訟の帰趨にとってはどちらでもよいこと、つまらないことを沢山書いてきて、大事なことがほとんど抜けていたりするのです。そういう陳述書を出されたら、もう一度書いてくださいと、今度は争点との関係でここを重視して書いてくださいといわなければならないことになり、その場で実質的な争点整理ができないことになってしまうのです。
そのようなことを考えると、円滑で迅速な、そして適正な訴訟活動のためにも、要件事実的な思考は欠かせないということです。

要件事実論は判決書を作成するためのものであって、裁判官が分かっていればいいというのは、非常に問題のある思考だと思います。これからは、日本の司法界でも、毎年3000人程度の法曹が生まれてくるわけです。その中で、裁判官になる者は恐らく少数、例えば100人から200人くらいかと思います。本当はもっと増えればいいのですけれども。そういう少ない裁判官が重い釈明義務を負わされて、多くの事件で、「こういうことを主張立証してくださいよ。」、「これは主張しないのですか。」、といった釈明義務を負わされることになるわけです。
現時点では、最高裁が裁判官に要求する釈明義務というのは一般にかなり重い注14 と言われています。それはなぜかというと、最高裁も含めて、我々裁判官は「正義必勝」というメンタリティーを持っています。代理人がどんな人だって、言葉は悪いけども、どんなに出来ない人だって、事件として勝てる事件、勝つべき事件は勝たなければいけないと、それが裁判であり、それが正義の実現ということだということです。
そうすると、このような事件では、こういう事実があるでしょうと、裁判官が事実経過から窺われる事情を基にして求釈明することになります。訴訟代理人が本来やるべきことでしょうけれども、それを代理人がしないならば、裁判官がそれを指摘し、釈明してくださいということになります。しかし、今後の法曹人口の急激な増加などを考えますと、このように厳格な釈明義務についての考え方を維持できるか、維持すべきかは再検討しなければならない時期に来ているのではないかとも思います。

司法制度改革審議会の意見書の前提は自然淘汰注15 ということですね。良い法曹は生き残る、良くない法曹はそれなりに、ということでしょうが、この淘汰が起こる一番の要因は、訴訟代理人の訴訟活動であり、判決の勝敗ということであろうと思います。ところが、訴訟代理人が十分な法的能力・法的素養が無くても、重い釈明義務の存在によって、どのような訴訟活動をしても負けないということになると、そのような状況下で本当に淘汰が起こるのか、というようなところももう一回考えていかなければならないところであろうと思っています。
そういう意味では、法曹界における自然淘汰が起こる前提の不可欠な要素としても、そして、現実に淘汰が起こった際に自分が淘汰されないためにも、要件事実的な思考は極めて大切であろうと思います。

山野目: 学生諸君の意見も頂いてみましょう。
いままさに村田先生から重要な点が指摘されました。学生諸君の民事訴訟法の答案を読んでいると、こういうときは釈明すればいい、という答案が多く出てきます。民法の答案では、困ったときには信義則、民訴の答案では困ったときには釈明義務という答案がよくあります。
最高裁の判例の傾向が釈明義務を非常に重く見ているというのは、裁判規範としてはそれ相応に根拠があることでしょうが、これから法律家となっていく学生諸君の心構えとして、いわば行為規範としてみたときに、全てを釈明義務に頼って、つまりは全てを裁判所のイニシアティブに頼って訴訟運営していくということで、「それであなた方が弁護士になったと
きに、職業人としての矜持は保てますか。」ということを考えると、正しく理解された要件事実論を、熱意を持ってやっていただくことは、やはり重要だろう、と教える側は感じています。
ただ、非常に新しい素材でもありますから、学生諸君の間にも受け止め方に色々と違いがあるかとは思います。

学生: 私もまた、何でもかんでも釈明に頼るべきではないとは感じています。それはそれとしまして、要件事実の学習をやってきて、強く感じたことが一つあります。学校で教えられると、要件事実では、極限まで贅肉をそぎ落としたものが正解とされると感じました。それが、一番骨格になる部分だとは思いますし、骨組みが大事なのはよくわかるのですが、それ以外の部分を書くことがマイナスかのようなイメージを受けました。私は、骨組みさえしっかり理解していれば、多少贅肉がついていてもいいのではないかと、いろいろと勉強しながら思ったのですが、そのへんはいかがですか?